等幅フォントの中で作成しています。【ページ】の【文字サイズ】【中】でご覧下さい。

2010mineiri-p

旧千燈寺、奥の院、五辻不動を経て岩戸寺へ

西の不動から五辻の眺望
この山を越えて、もう一つ山を越えると岩戸寺


       仁聞入寂の「枕の岩屋」
千灯寺を出発した一行は、田んぼの間の道を川沿いに出て、川沿いを少し下り伊美川に架かる不動橋を渡る。その先の突き当りを右に折れ、少し歩くと鳥居があり、鳥居を潜って直ぐに西行戻しの宝篋印塔がある。その前の道をしばらく進むと、もう一つの鳥居が現れる。
鳥居から続く石畳の参道を100mものぼれば左手に旧千灯寺跡に立つ仁王さんが待ち受ける。

更に大雑把に積み上げられた石段をのぼりあがると奥の院と呼ばれる堂宇がある。奥の院左手に仁聞菩薩が入寂した場所と伝えれる「枕の岩屋」がある。

峯入りの一行は、それぞれに参拝し、更に、森の奥にある仁聞国東塔と仁聞の墓と伝えられる三稜石(五輪塔群内にある)を参拝した。
ここから、森の中の道を抜けて、更にのぼり、不動岩と呼ばれる岩山によじ登り、岩屋に屋根をつけた小さな堂宇に祀られている五辻不動尊(不動明王)を参拝した。眼下には、周防灘に浮かぶ姫島や、国東半島の北の海岸線が一望できる。

仁聞国東塔 仁聞の墓(三稜石)

天空の岩屋の不動明王を参拝した一行は、馬の背と呼ばれる細い尾根道を伝って、東の谷へ下り、再び長い林道をのぼって峠を越えて、岩戸寺のある谷へ向かう。

馬の背を下る頃は、すでに夕刻の5時を過ぎ、あたりは明かりを奪われはじめていた。慎重に歩を進めながら、峠の向こうの岩戸寺を目指す。

闇の中に法螺貝の音と懺悔散華六根清浄の声を響かせながらひたすら歩を進めて行く。

長い坂道をのぼり、峯の向こうの急な斜面を滑り降りて、歩き続けて・・やがて、迎えの鐘の音が聞こえはじめ、岩戸寺の近い事を知る。近くまで来ている事を知らせる法螺貝を力一杯吹き鳴らし、懺悔散華六根清浄の声を一段と高め、今日最後の力を振り絞って行軍した。

岩戸寺に到着したのは、真っ暗な闇に包まれた午後7過ぎだった。
画像は、五辻不動下から続く馬の背と呼ばれる尾根道。先頭は、峯入りを満願した最高齢者の寺尾さん(78歳)。トレッキングで峯入りの道を逆に歩いた時の一枚。(2010年5月22日)

岩戸寺と五辻不動の間の峠での一休み。
(2010年5月22日)
岩戸寺
(2010年5月22日)



石立山岩戸寺(いしだてさんいわとじ)

以下、岩戸寺説明書きの転記

 六郷満山末山本寺。養老二年(718年)仁聞菩薩の創建と伝えられています。
 寺名は仁安年間(1166~67年)の「六郷満二十八山本寺目録」に記されており、室町期(1336~千五百七十三年)の「六郷山定額院主目録」には、「天ノ岩戸寺徒十二坊岩戸寺三十佛三十番神」とあり、かつて十二坊を有していたことがわかります。




昭和五十四年五月十五日、県史跡に指定

国宝重要文化財
岩戸寺宝塔(国東塔)
 講堂向かい側の大きな岩の上に建つ国東塔は、塔身の銘文から、公安六年(1283)納経のために造立されたもので、銘文のある国東塔としては我が国最古のものです。
総高は3.29m。国東塔は、国東半島独特の宝塔で、大正三年(1914)京都帝国大学天沼俊一博士が国東の地名をとって命名されました。
昭和二十五年八月二十九日指定
国東塔の様式
《銘文》
 右志者為當山平安
 佛法興隆廣作修善
 乃至法界平等利益
 公安六年 大歳癸未 九月□日(1283)
 大勧進金剛佛子尊忍

国重要無形文化財
岩戸寺修正鬼会(いわとじしゅじょうおにえ)
鬼会は仁聞菩薩が、国家安穏・五穀豊穣・無病息災の願いをかけて大法要をを
行ったのが始まりといわれています。
現在、国東町では岩戸寺(旧正月七日)と成仏寺(旧正月五日)隔年交代で行う、
六郷満山最古の天台儀式です。
 昭和五十二年五月十七日指定

県有形文化財
木像薬師如来坐像
 薬師堂に安置されています。像高96.1cm。榧材による一木造の彫眼像で、平安初期の様式を伝える優作です。 
昭和二十八年四月二十日指定

石幢(せきどう)
六地蔵像と阿弥陀三尊像及び閻魔王が彫刻されています。幢身の銘文から、豪隆の菩提と豪範の逆修(生前に自分の死後の冥福を祈る)ために文明十年(1478)造立されました。
昭和四十三年三月二十九日指定
《銘文》
權少僧都豪隆為頓證菩提弟子敬白
文明十年 戌戊 十月九日
豪範為現在在安穏後生善處

岩戸寺石像金剛力士立造
いずれも安山岩製で、像高は阿形140cm、吽形135cm。両像とも背部に銘文があり、文明十年(1487)六郷山岩戸寺院主 藤原都登丸、大願主豪範ほか七名の結縁によって像立されたことがわかります。