2009年3月28日(土曜日)曇り 国見町 旧千燈寺址から五辻不動を歩く
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西行戻し
山門をくぐって二十八段程の石段を上ると西行戻しの場所に出る。西行戻しとは、この場所に立てられている地名伝承書きによれば、平安時代末期、京都御所の北面の武士であった佐藤義清は平家の没落を見て、世をはかなみ西行と名を改め、真言僧となり全国行脚の旅に出た。

九州に渡り、六郷満山の千燈寺の住職の器量をみようと、登ってここまできた時、たまたま小僧が綿を持って下って来るのに出会った。そこで西行は小僧に向かって「その綿は売るか」と言ったところ、小僧は即座に「谷川の瀬に住む鮎の腹にこそ うるかと言へるわたはありけり」と和歌で答えた。「小僧でさえこれほどであれば、和尚の器量は見なくても分かる」と、ここで引き返した。それでここを西行戻しと言うようになったという。
【売るか】 【うるか・・・鮎のはらわた】

この場所の右手は切り立った崖で、そこを覗き込むと、綺麗な谷川の水が見えた。左手には岩肌の斜面に西行戻し宝篋印塔、地蔵菩薩石像、石塔、石塔婆などが無数に置かれている。何を願って、この地にこれだけの数のものを祀ったのか、厳しい国東半島の生活環境と神仏の隔て無く全ての精霊に縋ろうとしたものだろうか。残念な事に、これらの石像を持ち去る輩がいると聞く。ここにあるもの全てが芸術品ではなく、人の思いがこもったものである。是非ともこのままにしておいて欲しい。

石像が並べられている崖の上にも興味があって、地蔵菩薩の横からよじ登ろうとしたが、地蔵菩薩の台座の端に膝小僧をぶつけてしまった。もしや、危ないので登るなとの警告ではと思い登るのをやめた。

 



旧千燈寺址

西の坊跡


その一段下の段に「千燈寺跡・西不動一体全図」の案内板が立てられている。案内板には、

寺号  補陀落山千燈寺(天台宗)
本尊 千手観世音菩薩

由緒縁起(板書き転記)

本寺は、養老二年仁聞菩薩の創建と伝えられ、六郷山本寺である。

かつて末寺、末坊三十八ヶ所を有していたと伝えられる。仁聞菩薩が同行五人と不動石屋において不動の法を行した時、東北海の龍王がその徳に感じ、献燈すること一千に及んだ。よって千燈寺と称するに至ったという。

当寺は、仁聞入寂の地として、また六郷山無常導師所として六郷満山中で重要視された寺である「太宰管内志」に「仁聞入寂の地・本堂千手・六所権現・山王権現・薬師石屋・大講堂・地主権現・大師堂・尻付石屋・普賢石屋・大不動石屋・奥の院不動石屋・退転牛王石屋・小不動石屋八大龍王石屋・千燈寺末寺 平等寺 全光寺 真覚寺」とある。

広い境内地の中に多くの史跡文化財があり県指定史跡となっている。

西不動は千燈の谷を挾んだ西山に点在し、修験道行者が聖地とした行場である。

案内板によるとこの場所は、「西の坊跡」である。
ここには大きな石碑が二つ建っている。

梵字のバク(釈迦如来)であろうか、と、下に法華経千部供養塔と刻まれた大きな石碑が建っている。
嘉永5年(1852年)の年号が読み取れる。

もう一つ石碑には、梵字のカーン(不動明王)の下に仁王経塔(にんのうぎょうとう)とある。裏面には、国家の安泰と風雨の災い無く五穀成熟、萬民快楽を願う文字が刻まれている。
願主は、台音房豪賢坊、天保15年(1844年)と刻まれている。願主は、たぶん、千燈寺の住職だろうと推測する。
ここには、シャガの群生があり、もうじき美しいシャガの花園になる。

さて、川石の石畳をゆっくり上って仁王さんに会いに行こう。苔生した丸い川石はつるつると滑りやすい。転ばないようにゆっくりと歩を進める。若葉の芽吹きが美しいヤマモミジを見上げながら上っていく。

途中右手の崖に回国供養塔がある。回国供養塔とは法華経を六十六部写経して、その六十六部の写経を代表的な全国六十六ヶ所の寺院に納めることを「六十六部回国供養」と呼ぶ。この納経回国者を「六十六部」と呼び、回国の難行を果たした者が記念として建てたのが回国供養塔である。
その少し上に小さな五輪塔が置かれている。




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