2009年3月28日(土曜日)曇り ・・ 国見町 旧千燈寺址から五辻不動を歩く
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五輪塔群 仁聞の墓 弘法堂跡


枕の岩屋、奥の院、六所権現前を通って林道を東へと進むと、200m程で講堂あたりからのぼってくる道と交差する。ここを左に曲がると仁聞国東塔、大師堂跡、仁聞の墓があり、おびただしい数の五輪塔が並べられた五輪塔群や宝篋印搭群がある。

途中藪椿の真っ赤な花があちこちに見られた。

書籍:「国東半島の歴史と民族」/発行:昭和四十九年三月一日一版/著者:梅原治夫氏(1915年大分県生まれ)によれば、豊鐘善鳴録の「時に東海の竜王その徳を欽仰し、灯を献ずること一千ばかり…云云」とあるところのものであろうか。伝説によると、鬼が一夜で伊美の別宮社から運んだともいわれるが、おそらくみ仏を信仰する庶民によって建てられたものであろう。これほどたくさんの石塔群が一ケ所にあるところは、まずないであろう。この石塔群の中の国東塔一基に、仁聞菩薩の墓と標示されているがこの塔は鎌倉末期のものである。

宝塔群のあるところは弘法堂跡と伝えられるが、その堂跡は明らかでない。千灯寺のことを無情寺とも呼ばれているが、これは仁聞菩薩入寂からおこったものであろうか。

おびただしい数の五輪塔は、中世から近世にかけて数百年間に渡る信仰のあかしだろう。
このあたりを観音浄土・補陀落山と信じて、来世の安住を求めた信仰深き人々が、いかに多かったかがうかがい知れる。

千灯・・千塔・・燈籠か、塔か、もしかして千塔寺だったのでは無かろうかと素人想像をかき立てる。

ヤマモミジの鮮やかな黄緑色が春風に揺れる空間に奇妙な造形の石造が並ぶ中に真新しい墓が置かれている。
近寄ってみれば、千灯寺住職の墓石であった。

さて、ここから戻ろうか、それとも五辻の岩屋を目指そうか、上に伸びる道を見上げながら少し腰が引ける。折角だからと自らを激励して丸太の並べられた道を上る。



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