2009年3月28日(土曜日)曇り ・・ 国見町 旧千燈寺址から五辻不動を歩く
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国見(くにみ)から赤根(あかね)に通じる県道31号線の千灯(せんどう)バス停近くに車を停めて、旧千灯寺(きゅうせんどうじ)、五辻不動(ごつじふどう)を目指して歩く事とした。

ただ今時刻は11時15分。県道沿いの田んぼは草が青々と繁り、畦にはレンゲソウやペンペングサやオオイヌノフグリなどが競うように花を咲かせている。畦の向こうには淡いピンクの桜の景色が広がっている。

伊美川(いみがわ)に架かる不動橋(ふどうばし)を渡る。橋の上から伊美川を眺めれば菜の花が一面を黄色に染めている。
流れる水もその色に染められて軽やかな音をたてている。
新しい橋のたもとには、古い橋の橋名板が置かれていた。

橋を渡ると、ボケや花桃やユキヤナギの花が民家の庭先を飾っている。

道は突き当たりとなって左右へ分かれる。そこには六郷満山(ろくごうまんざん)ふれあい森林公園の案内地図があり、【左、五辻不動茶屋】、【右、旧千燈寺】の道標がある。
どちらへ行っても道はぐるっと巡って、ここへと戻る。

今日は、右の旧千燈寺へと向かうことにした。道の脇には大きな桜が七分程の花を開かせている。
その木の下には小さな石の祠が置かれている。
大きな木の下の祠・・シチュエーションからして小一郎神ではないだろうか?

見事な桜の花を眺めながら、その向こうに広がるピンクや黄色に塗られた春色を楽しみながら緩い爪先上がりの里道を歩く。

少し歩くと、雑木林があって、椎茸栽培に使うクヌギの木が並べてある。その林の中でおばあさんが薪を集めていた。見れば、以前金比羅社の仁王さんを探していたときに、その場所を教えていただいたお婆さんだった。お互い記憶にあって、挨拶を交わした。あのときいただいたハッサクは乾いた咽に美味しかった。

さらに、足下の春の景色を楽しみながら歩いていくと、小さな道標に金比羅社仁王と書かれている。
草に覆われた小道が雑木林の奧へと続いている。
金比羅社の仁王さんに会うには、この道を通って谷川を渡って、急な斜面をよじ登る。時間にして10分ほどだった様に記憶する。さて、あの道はまだ通れるのだろうか。



ここから少し行くと右手の道の下に民家がある。
今は倉庫か何かに使われているようで、人が住んでいるようには感じない。

その家の脇に五輪塔(ごりんとう)が二つ並んでいる。その一つの水輪(下から2段目)に大きく菊の文様が刻まれている。
地輪の後ろ面には十字架と見える文様が刻まれている。少々気になったので、菊の文様について調べてみた。正しいかどうかは分からないが、こんな歴史があったので紹介しよう。

1281年の元寇(げんこう)の時に、六郷満山全寺院六十五ヶ寺、八百坊、約2千人の寺僧が異国降伏、国難打開と祖国繁栄の大祈願を長期にわたって行った。その恩賞として鎌倉朝廷より菊花の紋章が鎌倉幕府豊後守護職を経て六郷満山に下賜(かし)された。

当時六郷満山の長議所(聴講所)であった馬城山伝乗寺(真木大堂)の本堂に高く掲げた。
今日、真木大堂旧本堂正面の扉に大きく掲げられ、当時を物語っている。
『国東半島 六郷満山の伝承 景勝と仏の里』
              著者:渡辺了氏

前述の歴史からして、国東半島の石造文化財に菊花
の文様が刻まれている事が、その史実と結びつくの
か。


【元寇】とは、日本の鎌倉時代中期に、当時大陸を支配していたモンゴル帝国(元)及びその服属政権となった高麗王国によって2度にわたり行われた日本侵攻(遠征)の、日本側の呼称である。
1度目を文永の役(ぶんえいのえき・1274年)2度目を弘安の役(こうあんのえき・1281年)という。蒙古襲来の事。

以上はあくまでも想像。菊の花や十字は何を意味するのだろうか。
道や左右の林や、おい茂る木々の隙間に見える空の様子を眺めながら西行戻し(さいぎょうもどし)を目指す。

不動の橋から千歩強で西行戻し下の参道へと着いた。坂の上を見上げれば、石の門がある。

四角い柱二本に貫が横一本の構造。以前は、二本の柱の上にそれぞれ小さな石殿が載せられていたのだが、いつの間にか無くなった。(2005年の台風水害によって流された模様)
鳥居と勘違いして沢山の石が投げ上げられて載っている。さて、鳥居の上に石を投げ上げて載れば願いが叶うとか、字がうまくなるとか、そんな迷信を信じて私も子供の頃やった記憶が有る。

右の門柱には「猛逓一声高山月」と刻まれている。また反対面には千燈寺の住職によって建立されたものと刻んである。この建造物を山門としたが、珍しい形の鳥居かも知れない。

山門の右手には桜が満開の花を誇っている。薄暗い森の中にひときわ鮮やかに映えていた。

右の画像は、2000年5月4日
たびにありて」の管理人さんが撮影されたものを拝借しました。
この画像では、右の柱の上に石造りの屋根の様なものが載っています。ここから想像するに、両方の柱の上にこれがのっていたものと考えます。

一般的には鳥居としているようですが、鳥居の形体である笠木や額束は当初から無かったものと思われます。よって、非常に珍しい石造の山門ではないかと勝手に想像しました。

あちこち探しましたが、この写真にある屋根(石殿?)は、近くには見つかりませんでした。

また、webで門や鳥居も調べてみましたが、このような形のものは見つかりませんでした。

どこかのブログで見つけた鳥居の説明です。鳥居と門の意味は同じと解釈出来るようです。

鳥居とは神社などにおいて御神域・御聖域、と人間が住む俗界を区画するもの(結界)であり、神域への入口を示すものです。
鳥居を潜れば、そこは神々の住まれると言う標しです。尚、一種の「門」であることから、寺院に建てられていることもあります。
真偽の程は別にしても、次のような面白い解釈もあるようです。

鳥居=人が鳥(酉)に育って、天に飛び帰るための智恵の道の入り口 鳥居(門)→参道→神と出会い結ばれる)

=魂を天国に出産するという人間の目的(天命)を果す。


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