usa8-3a.html    第3回「八幡文化を訪ねる旅」 宇佐神宮大祓
             と摂末社の旅
202年6月30日
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今回は、宇佐神宮の「摂社・末社」を訪ねました。そして、毎年年に一度行われる「夏越しの大祓」(なごしのおおはらい)に参列しました。

後藤先生作成の「宇佐神宮摂社末社一覧」

摂末社に関する規定は特にない。おおかた、摂社は宇佐神宮の祭神と縁故の深い神を祀った神社。末社は、それ以外のものと区別される。格式は本社>摂社>末社の順とされる。本社の境内にあるものを境内摂社(けいだいせっしゃ)または境内社、境外に独立の敷地を持つものを境外摂社(けいがいせっしゃ)または境外社という。

大尾神社(おお神社 境外摂社-1)
説明書き立て看板転記

御祭神 八幡大神

八幡大神は奈良の都の大仏開眼式に臨まれ、宇佐へご帰還ののち、天平神護元年(七六五年)この大尾山にしばしの間鎮座するとの御託宣により山上に本殿を造営、十五年間お鎮まりになった。

この間、神護景雲三年(七六五年)七月十一日 和気公は「宇佐使」として当地に参向、皇統を守護する託宣を受けられた。

大神が本宮へ還御されたのち神勅拝受の聖蹟として八幡大神の御分霊を祀り、大尾神社と称された。


大元神社(おおもと神社 境外摂社-2)
拝殿の向こうに「奥宮」の額装がかかる鳥居があり、その向こうの山(御許山)に巨石が三体の御神体が鎮座します。

日本書紀に、「日神(アマテラス)が生まれた三柱の女神を、葦原中国の宇佐嶋に天降らせた」とあります。
三柱の女神とは、タゴリヒメ・タギツヒメ・イチキシマヒメ。宇佐嶋の解釈を宇佐神宮の東南に聳える御許山(オモトヤマ)とし、この地に天降ったとした説です。

また先代旧事本紀には、「ニニギ尊の天孫降臨の時、ニニギに従った神々の中の「天三降命」(アメノミクダリ)が豊前国宇佐国造(宇佐氏)の先祖」とあり、このアメノミクダリとは先の三女神の別名だとされているそうです。
         ・・WEB情報より


鉾立神社(ほこたて神社 境外末社-1) 阿良礼神社(あられ神社 境外末社-2)
道路から細い参道を少し歩くと、『鉾立宮』と刻んだ自然石の碑が立っている。左手の石段を上った場所に、玉垣に囲まれた聖域があり、神木が一本立っている。

【説明書き転記】

宇佐市大字南宇佐字大宮迫

祭神 八幡大神

欽明天皇三十一(570)年に応神天皇の神託が大神比義翁にあり、翁がここに鉾を立てて神座とした。以来和銅五(七一二)年までの一四二年の間、朝廷の詔により比義翁が玉垣の中の鉾に向かって祭文を奏した聖地である。
田んぼの畦道を歩いて、小さな小川の直前右手に玉垣で囲われた聖域があり、中央に注連縄が掛けられた石碑が立っている。
後藤先生の話によれば、玉垣の中は聖域で、何人たりとも立ち入ってはならないそうだ。先生は、間違って入ってしまった事があるとの事。草刈りの時はどうするんだろう?

八幡大神の奇瑞を現された阿良礼神社といわれている。
奇瑞とは、神が三歳の童子と化して竹の葉の上に顕れ、辛国城(カラクニノキ)にはじめて八流の幡を天降し、「吾は日本の神となれり」と託宣したとの伝承を指すの。阿良礼とは、カミの御子の誕生を意味する「御阿礼(ミアレ)」が訛ったものと解釈されている。



椎宮神社(椎根津彦神社 境外末社-3)


椎根津彦 /『前賢故実』より wikipedia』より
椎根津彦(しいねつひこ、『日本書紀』)、槁根津彦(さおねつひこ、『古事記』)は記紀に登場する国つ神。神武東征において登場する。倭国造(倭直部)の祖。

神武天皇が東征において速吸門(はやすいのと)で出会った国つ神で、船路の先導者となる。このとき、『書記』では天皇が勅で椎の棹を授けて、名を珍彦(うづひこ)から椎根津彦に改めさせたとあり、『古事記』では亀の甲羅の上に乗っていたのを、棹をさし渡し御船に引き入れて槁根津彦の名を賜ったという。

その後、神武天皇に献策し、兄磯城を挟み撃ちにより破る。

日本書紀での速吸門は豊予海峡を指すと考えられており、大分県宇佐市と大分市佐賀関には、椎根津彦を祀る椎根津彦神社がある。

古事記での速吸門は吉備国の児島湾口を指すと考えられる。岡山県岡山市東区水門町には、珍彦、宇豆毘古命(うづひこのみこと)の乗った大亀の化身とされる亀岩を祀る亀石神社(かめいわじんじゃ)がある。

また、椎根津彦命を祭神とする神社には、兵庫県神戸市東灘区本山町の保久良神社(ほくらじんじゃ)がある。保久良神社由緒書によると「社名の起因も1、椎根津彦命の子孫たる倉人水守等が祖先を祭祀し奉る 2、三韓役の戦利武器を収蔵するより」とあり、神武東征時速吸之門(明石海峡)に現れて軍勢を先導したとある。

椎根津彦命は保久良神社の南に位置する神戸市東灘区の青木(おうぎ)の浜に青亀(おうぎ)の背にのってこの浜に漂着したという伝承があり、それが青木(おうぎ)の地名の由来となった。

吉井良隆は保久良神社について「椎根津彦命は大阪湾北側を支配する海部の首長であったとされ、西宮夷(兵庫県西宮市西宮神社(にしのみやじんじゃ))の奥夷社の元宮」と推測している。

百體神社(ひゃくたい神社 境外末社-4)
百体社境内の説明書き転記

朝廷が奈良時代に南九州の隼人を攻めた際に、八幡神も参加しました。この隼人の霊を鎮めるために造られたのが、この「百体社」です。宇佐神宮で隼人の霊を鎮める祭礼として始められたのが「放生会」で、全国の神社や寺院で行われるようになりました。        宇佐市

勅使道と隼人にまつわる文化財・・説明書き転記

古代より、宇佐宮には天皇即位や国家異変などに際し、天皇の意志を伝える勅使が派遣されました。宮道を進んだ勅使は、駅館川沿いの宇佐駅から宇佐宮へと参向したため、この道は勅使道と呼ばれました。江戸時代、宇佐宮の神官は松隈で勅使を出迎えました。

鳥居の額装は当時の物が残っている。鳥居を潜って境内に上ると、直ぐ右手に石塔があり、その風貌は顔全体に髭を伸ばした何とも奇妙な老人のレリーフ像でした。(庚申塔かな?)

鳥居の額装 殿はまさに神仏習合

境内右手の石塔(猿田彦神?)

寺のような装飾をされた社

大元八坂神社(やさか神社 境外末社-5)
鳥居

本殿
本殿

石灯籠
八坂社鳥居越しの御元神社