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初回「宇佐神宮奥宮 大元神社例大祭の旅
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usa8-a1 2012年4月29日 文字は、の等巾フォント(MSゴシック)でご覧ください。

NHK文化センター大分教室が主催する「八幡文化を訪ねる旅」の初回「宇佐神宮奥宮 大元神社例大祭の旅」

本日は、宇佐市の御許山(おもとさん 標高647m)に鎮座する大元神社で毎年4月29日に行われる“大元神社例祭(おおもとじんじゃれいさい)”や御元神社周辺に点在する遺跡を材料とした学習会へ参加しました。

大元神社(おおもとじんじゃ)は宇佐神宮の元宮で、御許山山頂(標高647m)付近にあり、その位置は、宇佐
神宮の東南約6kmほどのところです。御許山を中心とした一帯の峰は、馬城嶺(まきのみね)・廚岑(くりやのみね)とも呼ばれる記録が残ります。

御許山への登頂は、宇佐神宮から林道を走り、御許山登山道入り口から徒歩。安心院町の正覚寺地域から御許山登山道入り口まで車で上り、以降徒歩。JR西屋敷駅(R10号)から林道を上るコースがある。また、宇佐神宮からの参道もあると聞くが、今後のテーマとしましょう。今日の私は、別府市北浜バスターミナルからバスに乗り、国道10号線をひた走り、宇佐神宮を過ぎて北宇佐交差点から県道658号線で安心院町正覚寺経由で御許山登山口で下車し、御元神社まで歩きました。


御許山の山頂には3個の立岩(磐座)があり、この立石を依代として比賣大神(三女神)が降臨したと云われています。残念ながら、三つの立石がある頂上部は禁足地とされ、鉄条網が張り巡らされていますので撮影他確認が出来ません。当日講師の後藤正二先生(元宇佐歴史民俗資料館長)のお話によれば、中央の石が最も大きく高さ約4.8m、右の石はこれより少し小さく、左の石は高さ約1.8mとの説明をいただいた。禁足地にも関わらす、この数値を誰が計測したのか?先生もご存じないとの事だった。

11時に大元神社例祭(おおもとじんじゃれいさい)と昭和祭が始まった。私の興味はお供え。祭壇には神に向かって上段左の三宝から、山の幸(にんじん・キュウリ・なす)、二番目には、鯛(頭が右、腹が神様へ)、三番目の三宝には、米、四番目には、水・塩・酒・餅、五番目は、海の産物として、昆布やわかめ等と思うが、よく見えなかった。下段には、左から、本日まかれる餅、その右手の七番目の三宝日は、ドラゴンフルーツとデコポン他がのっていた。

拝殿での配列は、神様に向かって右に地域の氏子他世話人が座り、左にや初穂料と呼ばれるお供え(奉仕)額の多い人他の参拝者が座る。要するに、神様に向かって右手が上座、左手が下座とのこと。また、進佐退右なる言葉もお教えいただいた。「進左退右(しんさたいゆう、しんさたいう」とは、進む時はまず左の足から、退くときは右の足から、という意味出そうです。他にも、「起右座左」(起つ時は右の足から、座る時は左の足から動く)や、進下退上(進む時は相手に遠い方(下位)から、退く時は相手に近い方(上位)から)もある様です。

これは「神・仏」に対して非礼とならないように慎重に足を運ぶという意味だそうです。
知らない事が多い!

おおよそ30分に及ぶ神事のあと餅まきが行われました。
餅まきは、「散餅の儀」という災いを祓うための儀式の事の様だそうです。私も一生懸命餅を拾いましたが、目の前の子供と欲の皮の突っ張ったおじさんに気遣いながらでしたが結構の数を拾いました。子供は別にして、人を押しのけ、人の手から引き剥がして拾った餅には御利益は無いでしょう。


有り難いお餅 花大根の弁当

御神水「三鉢の水」を飲む後藤先生 昼食後は、社の周りにある史跡見物です。
最初は、神社南東100m程に位置するある御神水「三鉢の水」を見学しました。
一年中涸れる事がないという事です。後藤先生はこの水を「うまい」といって飲んでいました。80歳のエネルギーか?

続いて、境内を通り反対側の表参道へ向かいます。境内西の石段を下り、表参道脇に残る坊跡の見学に向かいます。「表参道」は、かつて宇佐神宮から大元神社(奥宮)へお参りするメインの参道でした。参道脇には、宇佐神宮からの距離を示す「丁石」と呼ばれる柱石が立てられています。

石段を下り始めると、幹の直径が2mを越す程の大木が鬱蒼と茂っており、歴史を感じさせてくれます。平成3年9月27日の台風19号及び平成8年8月15日の台風12号の被害を受け、多くの木が倒れたそうです。

暫く荒れた参道を下ると、サンショウウオの住む池がありました。皆でのぞき込むも残念ながらその姿は確認出来ませんでした。

サンショウウオの棲むという水たまり
さらに下ると、「東の坊・西の坊・石垣坊・成就坊・谷の坊・椙洞院」という御許6坊の跡を示す石垣があり、当時の面影を忍ぶ事が出来ました。

宇佐神宮の境内にあった弥勒寺の僧たちの修行の場としてこの険しい地に坊を築き栄えたと思いますが、明治元年に御許騒動により坊が焼かれ、さらに神仏分離令によって、再興もならず、一挙に衰退した様です。

苔生した石垣の坊跡を過ぎて暫く歩くとお地蔵さんが立っていますが、首がありません。先生の説明では、博打打ちがお地蔵さんの首を取り、懐に入れておけばツキがまわって来るとの事。そんな縁起担ぎのせいで首のないお地蔵さんが多いとの事でした。さて、結構な重さと思うが、そんな重たい地蔵の首を懐に入れたのだろうか?で、何でお地蔵さんの首が?WEBで調べてみましたが、見つかりませんでした。

坊跡の石垣を見学する参加者

首無し地蔵尊 旧社務所裏の延命水 岩が竜の頭に似ている

画像は陽石
左の画像は陽石。陰陽二つの石があったそうですが、陰の石は下の藪へ転がっていったそうです。全国に見られる陰陽石です。子孫繁栄を願う形でしょう。

このまわりには、梵字を刻んだ石碑や六地蔵と思しきレリーフ像が沢山ありました。後藤先生の熱のこもった説明と時折のジョークを楽しみました。

80歳でこの記憶力・・・凄い!画像の陽石よりもお元気かも?

さらに、藪の奥に私たちを案内していただき、龍の駒と呼ばれる馬蹄石を説明いただきました。畳2畳ほどの表面が平らな石に馬の蹄の跡がある?八幡大神を乗せた馬(龍のような馬?)がこの石をけって天へ飛び翔けた時の蹄跡が残っているとの事だが、なかなかその跡を確認出来なかった。

六地蔵や板碑の説明をする後藤先生 梵字の刻まれた板碑

龍の駒を説明中の後藤先生と、聴き入る参加者
なかなか楽しい一日を過ごす事が出来ました。

さて、老人力が付いたか?    でっ、老人力ってなんでしたっけ。・・たぶん、後藤先生のパワーをいただけた事でしょうね。我が目標は後藤先生になりました。