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Top← 第2回 「八幡文化を訪ねる旅」 宇佐八ヶ社めぐりの旅 202年5月13日
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今日のコース

宇佐神宮が今日の土地に鎮座するまでに、八ヶ所の地を経たといい、宇佐八ヶ社と呼ばれます。

今回のコースは、豊後高田市犬田の@「田笛神社」を皮切りに、宇佐市上田A「鷹居八幡社」、宇佐市上乙女B「乙梼ミ」、宇佐市富山C「大根川神社」、宇佐市辛島D「酒井泉社」、宇佐市法鏡寺E「郡瀬社」、宇佐市安心院F「妻垣神社」、宇佐市小向野G「小山田社」の八ヶ社を巡った。

上のGoogle Earthの黄色い丸印が今回巡った八ヶ社、赤い丸印は、最初に降臨したと云われる御許山、次に3歳の童の姿で降臨したと云われる薦神社、そして、現在鎮座されている小椋山(宇佐神宮)。


 田笛神社 たふえじんじゃ

拝殿

社殿

社殿に被せた外屋根

亀のお供え

 鷹居八幡社 たかいはちまんしゃ
由緒(石碑由緒転記)

応神天皇の神霊は元明天皇和銅三年(七一〇)の御出顕で御父仲哀天皇御母神功皇后の神霊は後に合わせ祭るとある。応神天皇の御神霊を八幡大神と称し奉るは人皇三十代欽明天皇の御宇二九年(五六八)豊前国宇佐郡宇佐の亀山(小椋山菱形池)の麓に三才の小児とあらわれ「吾は応神天皇の神霊広幡麻呂なり」と大神比義に諭された。その後神殿を造営するにあたり人皇四三代元明天皇和銅三年(七一〇)この鷹居山に三才の小児が鷹となって飛来され再度大神比義に諭された。

比義は朝廷に社殿のご造営を奏され、ここに八幡大神の神霊を祀る最初の霊地「やしろ」が造営された。霊亀二年(七一六)この宮道(国道)は人の往来が激しいので小山田の林に移りたいとの託宣により、小山田社に移祀され、また、この小山田社も境内がせまいので小椋山に移りたいとして神亀二年(七二五)現在の宇佐宮へ移祀された。
以後この鷹居社・小山田社の二社は、江戸末期まで宇佐神宮の摂社として存続したが、明治維新以降各神社は地域住民の鎮守のヤシロとされた。

平成十六年三月 宇佐市商工会議所
   観光部会 部会長 賀来聖壱他部会員一同
【公園内立て看板】
鷹居公園内の鷹居神社の歴史
和銅元(708年)、八幡神は鷹の姿となって駅館川のほとりの松の木に現れました。このため、大神比義と辛島勝乙目(からしまのすぐりおとめ)が神殿を建てお祭りしました。本公園はかつての高居社の境内としての重要な歴史を有しています。
         宇佐市役所 都市整備課公園緑化係



 乙盗_社 おとめじんじゃ 神社の説明書き転記
御祭神
仲哀天皇(第十四代)神功皇后 応神天皇(第十五代)比売大神(三女神)
仁徳天皇(第十六代)日本武尊 天児屋命 別雷命

御由来
當社は今年より千二百九十五年前 前人皇第四十三代元明天皇 和銅三年 元位置である古代の古墳上に宮柱を鎮め神籬(ひもろぎ)を設けて仲哀天皇 神功皇后 應神天皇の御三柱の御神霊を奉祀したのが御創建と言うことになっております。

また比売大神外御四柱の御神霊は其の後に合わせまつられた神々であります。

本社は 乙比梼ミ 乙灯ェ幡宮 乙梼ミ などととなえられておりましたが明治四年に乙盗_社と号することになりました。

往昔この地は八幡大神の御神霊御霊幸の霊地として宇佐八幡行幸会の大儀にはしばしば御巡幸あらせ給ひ又朝廷より奉幣使等の御参向もあった程のまことに御由緒の深い神社であります。

尚宮下の南にある乙女水(誓水)は八幡大神御霊幸の際最もゆかりの深い御霊水と伝えられております。


御祭日

二月二十五日  祈念祭   五穀の豊作を祈願

四月三日    例祭 當神社に最もゆかりのある祭日

十二月十四日  新嘗祭   新米を献じ神恩に感謝

       平成十一年四月    謹書


御霊水説明書き

御霊水

 大根川神社 おおねがわじんじゃ


 酒井泉社 さかいいずみしゃ
宝池

辛島泉社史蹟案より転記

酒井泉社(泉神社)
社殿は、大化4年(649)に建立され、天平宝字3年(763)に霊泉で酒を造って八幡神に献じ、其の残滴を注いだところから泉が湧き出たので「酒井泉社」と称するようになったと伝えられている。その後、奈良・平安の頃八幡神の新しいご神体は、宇佐宮と深いご縁ある「八箇社」を巡ってから、本殿に安置されるという「行幸会」が行われていたが、その由緒ある八箇社の中の1社として重要な役割を持った「酒井泉社」であった。



酒井泉社 宝池説明書き転記

宝池

天平宝字3年(763)に、社殿の傍らの霊泉で酒を造って八幡社に献じ、その残滴を池に注いだところ、泉になって湧き出たという伝説から、この場所に池を掘ったのが起源であろう。それ以来、昭和の終わり頃まで約1200年間湧き出し続け、名水として、また水田の灌漑水として永く広く利用されてきたが、平成の初めころ(1990)市の水道工事で泉の水脈が切断され、湧出量が減少してしまった。

 郡瀬社 ごうせしゃ
       郡瀬神社由緒より転記

祭神:應神天皇(八幡大神)・仲哀天皇 ・神功皇后

当郡瀬神社は全国八幡宮の総本社である宇佐神宮の御分霊を奉斎した八幡神社であります。

抑(そもそも)奉八幡大神と申し奉る(たてまつる)は人皇十五代応神天皇の神霊に坐せり。

欽明天皇の御宇廿九年豊前国宇佐郡宇佐の亀山(一名小椋山)の麓に三歳の小児と顕はれ坐して「吾れは応神天皇の神霊広幡八幡麿なり」と大神比義(おおがのひき)翁に諭し、人皇四十三代元明天皇和銅三年に同郡鷹居山(現東上田)にて復大神比義翁に対いて「吾神と成りて大空を翔れども栖(す)まむ処無し、此を以て御心荒ひたり」と諭し給ひしに困り比義翁は朝廷に奏し、勅定(ちょくじょう)を得、神殿を建て斎き奉る。

鷹居瀬社是れなり。(後郡瀬神社と称へ奉る)後人皇四十五代聖武天皇神亀二年(七二五)神勅ありて小椋山即ち亀山に還り鎮まり坐せるなり(現在の宇佐神宮)尚宇佐神宮には行幸会と申す大事な祭儀があり、その行幸会に当社は深い関係がある由緒正しい神社であります。
行幸会と申すは称徳天皇神護元年閏十月十八日の神託によりて四年に一度づつ行われしが、嵯峨天皇弘仁八年より六年に一度と改まり、近古戦乱の世久しく中絶せしを元和元年細川忠興侯再興せらる。其の大略は、下毛郡大貞なる三角池の薦を苅り、御璽(みしるし:薦枕)を封じ神輿に乗せ奉り、宇佐宮八箇社の内、先づ田笛、次に鷹居、次に社(当社)に御泊まり、次に泉社次に乙唐ノ行幸あり、次に大根川(この社より大神宝を薦社(中津大貞)に奉る。

上古はこの社にて勅使参宮あり、同夜復当瀬社に御泊りせり、翌日妻垣社(安心院)に行幸。此の社より大神宝を辛川社(速見郡)に奉る。翌日小山田に行幸、同社より亀山の本宮へ御還幸あり、旧き御重は下宮に遷座し下宮の旧き御璽(みしるし:薦枕)は国東郡奈多宮に行幸せるなり。

そもそも八幡信仰は単に応神天皇の御聖徳をたたえたものでなく、海外文化や産業を始めて輸入され新しい国づくりをされた実に英明幸運の方であると共に、神徳も強くあられたので伊勢につぐ御先祖のお社として崇敬された八幡社であり宇佐神宮の摂社としてお祀りされたが、明治五年郷社に列せらる。


 妻垣神社 つまがきじんじゃ
妻垣神社由緒記から転記

鎮座地 安心院町大字妻垣大門二〇三番地

祭 神 比淘蜷_(玉依姫命)八幡大神 神功皇后

由 緒 妻垣山(ともかきやま)は太古比淘蜷_の御降臨された霊地にして、宇佐神宮第二殿と言はれる。

八幡大神は稲徳天皇、天平神護元年宇佐八幡此の地に行幸、駐輩の地に同年十月八日、勅使石川豊成に八幡の神託有り神殿を創建し奉祀。

神功皇后は淳和天皇、天長年間に御勧請し奉祀。

足一騰宮 神武天皇御東遷の砌(みぎり)、宇佐国造の祖菟狭津彦(そのウサツヒコ)の処に宮殿を建立、奉饗せる旧跡で当時、天皇 天種子命を以て神武天皇の母后玉依媛命を祭らせ給う。
当社は比淘蜷_を祀って八幡社と号し、會っては普賢寺以下四坊の神宮寺を擁し、当部、中津、島原の領民百余村の氏子を有し、宇佐郷の宗社として崇敬され今日に至る。

祭 日

例 祭 十月二十二日午前十一時
神幸祭 十月二十二日より二十三日午後五時
春 祭 三月二十三日午前十一時
秋 祭 十二月二十三日午前十一時
月次祭 毎月一日 早朝
大抜式及び除夜祭  十二月三十一日
元旦祭及び正月祈願祭 一月一日

本宮祭  四月二十八日午前十一時

 ■妻垣神社略記    ■妻垣神社配置図 
 
 ■妻垣神社ホームページ



説明をいただいた矢野省三先生先生(画面右端)


龍の駒説明書き

龍の駒と呼ばれる石


町指定史跡 妻垣神社奥宮巨石 磐座の説明書き

共鑰山の院と云われる磐座


足一の印岩 説明書き

足一の印岩(復元)


小山田社 おやまだしゃ

額装には「貴布祢」とある


薦神社 こもじんじゃ
このたびの八ヶ社めぐりには含まれていないが、文献を読む限りでは、この薦神社が大きく関わっている事を知る。 それではと、薦神社を訪ねてみた。
広大な三角池を含む神社の敷地は自然豊かで、神のすむ荘厳な環境を感じる。



三才の小児の姿で現れた神様の足跡説明書き

大きな石に残された神様の足跡


三角池

三角池の真薦

案内三角池板配置図と案内書き転記
社殿は、承和元年(八三四〜八四八)の草創と伝えられるが、三角池の築造はこれより古いといわれる。薦神社が祀る八幡神は、池の守り神でもあったといわれる。

当時、大陸の技術を持つ渡来人によって、各地の水利不便な台地の多くの溜池が造営されたという。
三角池も、こうした溜池の一つであると考えられている。


 三角池は、穏やかに起伏する洪積台地を利用して作られ、北東から南西へ手のひらを置いたような形をしており、手の先にあたる南西側には三つの澤がある。

入江状の澤は浅く、ハスが密生し、マコモの群生地となっている。御神体でもある三角池では、池・植物・魚などが大切に扱われ、それゆえに貴重な水生群落、入江に群生するマコモ群落やハンノキ林などが残っている。
薦神社の周囲は、かつて鬱蒼とした森であった。現在でも、社殿のある一帯は、コジイ=クロキ群集の常緑広葉樹林に覆われ、イチイガシ林、クスノキの巨樹とあわせて境内林をつくっている。


 なお、三角池の植物と植物群落は、大分県指定天然記念物「三角池の水生・湿地群落」に指定(昭和五五年四月八日)されている。


         平成七年七月一日

               中津教育委員会

 大分県指定史跡
 三角池と薦神社
             昭和五一年三月三〇日
 薦神社は、別名大貞八幡とも呼ばれ、宇佐八幡の本宮であるとも伝えられる。

史跡範囲は、内宮である5ヘクタール余りの池と外宮の社殿からなる。池は、三角池(御澄池)とも呼ばれ、池そのものが御神体である。三角池に自生する「真薦」を刈り取って、池の中の敷島で乾燥し、宇佐八幡宮の御神体である「御枕」にしたという。