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庚申塔と最初の墓地から少し歩くと、墓地へ上がる石段がある。今は土台を水に流されて傾いているが、立派な石積みだった事がうかがえる。
その石段の右壁に磨崖の六地蔵がある。苔生してはっきりと姿は見えないが、祖先の霊に対する信仰の深さを感じる。
少しだけ、墓の中を歩かせていただき、庚申塔他を撮影した。
墓も少し見せていただいたが、立派なつくりのものが多い。もしかしたら、夷の隠れ洞穴に逃げ隠れていた平家の落人の墓とも想像した。
また、隠れキリシタンと思しきものも見受けられる。
苔生した石に刻まれた文様や文字から多くを想像したくなる空間である。 |
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さらに、道を進むと、再び沢に出会う。本来のトレッキングコースは、沢を超えて、右手斜面沿いの里道を歩くのだが、沢沿いにある岩壁下に朽ち果てる寸前の農機が置き去られている。
その岩壁の上の方に目をやると、くっきりと屋根の形の跡があり、もしや岩屋の跡ではと想像した。岩屋には仏が祀られ、村人の信仰の跡ではと思いをめぐらせた。
沢には石の橋が架けられている。これも、新発見の無明橋では無かろうかとも・・・
無明橋の最初の発見者は、国見町の山本氏。
しかしながら、種明かしをすると、単なる農具の保管小屋として造られていたものだった。期待は裏切られた。
つい先ほど、六所宮前で逢った村人にこの事を尋ね聞いた。 |
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そのまま畦道を沢沿いに上ると、岩壁がえぐれた窟があり、その窪みに観音様が祭られている。
観音様は、丸太をくり抜いた素朴な祠におさめられていた。
窟と私の立つ田んぼの畦道の間には沢が流れている。その沢には小さな石橋が架けられていたと思われるが、水に流されたようで、石橋と思しき物が沢の底に横たわっていた。
観音様の前には、直径60cm程の丸い竹の輪が数個と長さが80cm程の細い竹の棒が10本ほど置かれていた。たぶん、百手祭りの痕跡と思い、つい先ほど、村人に確認したところ、百手祭りの的と弓矢であった。残念な事に、3年か4年前に途絶えたと聞かされていた。
百手祭りは、上坊中の人たちによって行われていた正月の行事で、五穀豊穣や無病息災を占い願うものであったが、過疎と高齢化によって継続が出来なくなったそうだ。この目で是非見たいと思ったが、残念である。 |
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【百手祭り】
正月に行われる五穀豊穣や無病息災を祈る神事と言われる。
また、WEBの情報によれば、起源の古い豊作祈願の呪法の一種。正月行事。「オビシャ」、「魔当神事」、「破魔」、「百手まつり」などの呼び名がある。
起源は定かではなく、平家の子孫が、的を源氏の目に見立て弓矢を射、再興を願う事で始まった。(兵庫県香住町御崎地区)また、宇佐神宮から分霊を勧請するときに、弓を構えてお迎えした事が始まりとする。(高知県)
ほか多々統一性の無い起源の言い伝えである。
大分県では、大分市横尾、豊後高田市相原地区で今も行われている。大分市横尾の百手まつりは、室町時代から伝わり、弓で的を射抜き、五穀豊穣・無病息災を願う神事で今も盛大に行われている。 |
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再び、トレッキングのコースヘ戻り、峠へと向かう。今日は急ぐ必要もなくマイペース以下の速度。左手の沢沿いの尾根を見上げたら、5・6頭の鹿が甲高い鳴き声を響かせて走り抜けて行くのが見えた。
あの甲高い鳴き声は、私に対する威嚇だろうか。
鹿が角研ぎで剥がされた杉の森を少し汗ばみながら峠に向かって上る。
峠までもう少しの距離だが、棚田の石垣は途切れない。先人の凄いエネルギーを感じる。
棚田は斜面がきつくなり、頂上に近づくほど狭くなり、石垣に費やしたエネルギーとそこからの収穫が見合うのだろうか?なんて、つまらない現代風の物差しを当てがってしまう。
こんな場所でも岩からしみだす水を集めて棚田を潤したのだろう。今も、軽やかな水音を立てて棚田の上を流れている。 |
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そうそう、こんな話を誰からか聞いた。農機具も肥料も農薬もなかった時代の稲作は、山間地が適していた。
落ち葉や稲わらや牛馬の糞で堆肥をつくり肥料とした。
農薬が無かった時代、山間部の方が害虫発生による被害が少なかった。
などの理由から山間部での水稲栽培が盛んに行われ、大半が山と狭い山間部しかない国東半島は比較的豊かな稲作が出来たのだろうと勝手な想像をする。
その豊かさと宇佐の勢力が結びつき、国東半島の地へ仏教文化が根付き、多くの神社仏閣が残ったのではなかろうかと更なる妄想へと駆り立てる。
そんな妄想を膨らませながら歩く事1時間半程で、後野と呼ばれる峠にたどり着いた。きょろきょろと地面と木立と棚田跡の石垣ばかり見ていた視線を頭上に向けると、鮮やかな楓の紅葉がステンドグラスのような眩しい色を透して輝いていた。今年最高の秋色があった。 |
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