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中津の薦神社で行われた「仲秋祭」の一日目を見てきました。
【仲秋祭一日目概要】 薦神社の祭り 池永隆夫 より
旧暦の八月十四日、十五日に行っていた仲秋祭は、現在では九月の第三土曜日と日曜日に行っています。
八月初句に、関係地区の代表者庖神社関係者とで御神幸会議を開き、祭りの段取りを決定します。
この決定に基づき「クリーン作戦(境内地の大掃除)」を九月初旬に千人を超える近隣の老若男女が集まって行います。
傘鉾のお囃子を担当する子供達は、夏休みにはいるとすぐ稽古に励みます。そのお囃千は夜遅くまで響き渡り人々に祭りが近づいたことを知らせます。 |
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祭りの一日目は、午後の五時より祭典を行い、御輿に御霊移しをします。午後八時に花火を合図に御神幸が開始されます。先頭は、塩振りと呼ばれる白装束の二人の子供が、榊で塩水を振りながら清めて行きます。
その後に四人の旗持ち、稚児車、子供御輿六基、傘鉾四台、本御輿三基、最後に宮司が御輿をお守りしていきます。
午後十一時ごろ頓宮にお着きになり、そこで祭典を行います。
その後直会があり、人々が帰った後も、神職は頓宮で御輿とともに一夜を過ごします。
二日目は、午後三時より稚児行列を行います。六基の子供御輿が先導して、約百人の稚児達が、稚児車を引いて本宮に向かいます。
午後九時より、一日目と同じ行列が本宮に向かいます。午前零時ごろお着になり、本殿に御霊移しをし、最後の祭典を行います。その後、直会をして仲秋祭が終わります。 |
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神社祭神 薦神社パンフレット転記
応神天皇(おうじんてんおう)八幡神
比淘蜷_(ひめおおかみ)
・田心比売命(たごりひめのみこと)
・湍津比売命(たぎつひめのみこと)
・市杵島比売命(いちきしまひめのみこと)
息長帯比売命(おきながたらしひめのみこと)神功皇后
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この後も薦枕は八幡神の御験として永く用いられます。薦枕は6年毎に新しく造られ、八幡神とかかわりの深い八ヶ社(田笛社・鷹居社・瀬社・泉社・乙眸社・大根川社・妻垣社・小山田社)を巡った後に、宇佐宮本殿に納められます。古い御験は下宮に、さらに下宮の古い御験は国東東海岸の奈多宮に納められ、海に流されました。
この八幡神御験の薦枕造替にかかわる一連の神事が宇佐宮の特殊神事といわれる行幸会であります。
このように真薦の自生する三角池は『託宣集』が「豊前国下毛郡野仲の勝境の林間の宝池は大菩薩御修行の昔、湧き出でしむる水なり」と記述しているように、八幡神にとって切っても切れない極めて重要な霊池でありました。
往時の広大な森林は今はほとんど失われてしまいましたが、八幡神のご神徳により、内宮と称えられる境内の御池は今なお千数百年来の神秘をたたえ、一隅に真薦の自生がみられます。
かつて社殿とともにあった神宮寺の七堂伽藍は、大友の兵火により悉く焼亡したと伝えますが、元和2年(1616)細川忠興公が宇佐行幸会を復興した際に、薦神社の神門等を造営して崇敬して後、小笠原氏、奥平氏と領主は代わっても、薦神社に対する篤い信仰は変わらず、今日の薦神社の元が築かれたのであります。 |
薦神社の由緒
薦神社は太貞八幡宮とも称され、霊池である三角(御澄)池を内宮、社殿を外宮と仰ぐ由緒正しい八幡の古社であります。ご社殿の造営は承和年中(834〜48)と伝えられていますが、歴史は遥かに湖リ、八幡大神顕現にかかわる上古以来の歴史を刻むものであります。
八幡の由緒を記した『八幡宇佐宮御託宣集』によれば、薦神社は古くから八幡神と深いかかわりがありました。
養老4年(720)反乱を起こした日向・大隅の隼人に対し、中央政府の征討軍は八幡神を奉じて鎮圧に向かいます。この時、神輿には三角池に自生する真薦で造った枕形の御験(神を表すもの)が乗せられていたのであります。 |
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