武蔵町史によれば、・・(縦書きを横書きにしたための不都合あり)
由緒
当山は六郷満山に属し、中山の末寺である。したがって養老年間仁聞菩薩の開基であり、往昔は当村字岡の東に堂宇があり、始め中山東光寺と号していた。大友の争乱にあい、その後久しく亡廃してその星霜幾歳を経たかを知らない。と当寺の由緒には記してある。
寛文年中に至り、字大東の生れ大楽院豪全法師が中興して現在の境内に再建し、医王山丸小野寺と改称し、その際本尊を不動明王に改め、旧本尊薬師如来を現在の講堂に移し、当村の浄念なるもの京都の仏師に依頼してこれに彩色を施して安置した。なお又その脇立である日光・月光の両菩薩、十二神将もまた、浄念より寄附したと伝えられている。
二代大慈院良意はのち彦山福史房へ転じ、三代見生房看泉、四代本明房宥珍、五代静明院豪秀、六代正智院実応、七代龍泉坊、八代本明房聖海、九代顕正院豪和、十代密浄院豪澄が現堂宇を改築した。十一代大森豪応、十二代豊岡豪道、十三代郷司豪恵、十四代井手豪誠、十五代井手豪諦、十六代猪俣豪成、十七代松岡澄善、十八代三代高久現住に至る。
同町史の中の、西林寺由来書きに丸小野寺への改称前の東光寺の名が記載されている。以下がその記載内容。
なお国東町田深浄土宗西林寺本堂本尊前に偏額がかかっている。それは西林寺本尊の由来記である。
西林寺御本尊由来
御本尊座像御丈一尺六寸恵心僧部の御作なり。之此の如来の儀は六郷の内丸小野村に惣名中山より山号を山中山、寺号を東光寺とし寺料三十六石、本堂護摩堂講堂イラカを並べ寺中に坊中の数十二軒御座候所の御本尊なり。唯今は寺跡坊中跡共に作り畑となり、右の石の■斗り荒々残り御座候 |
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東光寺因縁の儀は、屋山の長安寺に古の帳面の中に御座候趣承り中候、蔵所に大友真鳥叛逆にて大小名、神社仏閣大破に及び寺料を没収し、坊中も散り散り無住と相成、御本尊様ばかり御残り遊ばされ、雨露懸り中趣に御座候。
其後小原手永大庄屋弥介殿丸小野庄屋治郎右衛門殿に只管お貰ひ相成候得共、村中不得心に候へば、治郎右衛門申すには此後修復等六ヶ布候間、弥介殿に進じ候得ば脊覆ひ奉り参り着其座所に■■■■■七兵衛と中す者小原より丸小野に入縁に参居候、此者に中付け脊覆ひ奉り小原に参り収へば、翌日より背中日々に増り痛み医療も叶はず、一年余りの間に背中の肉残らず腐り、終に相果て申候。
扨又如来様小原に御入り遊ばされ候以後は、夜な夜な光明甚だしく照させ玉へば、かゝる稀代の霊仏俗家に鎮座在こと恐れ少なからずと、急ぎ浄土宗西林寺御本尊に据え奉り、元より西林寺に御安置遊ばされ候。如来様お迎へ奉度相談相究り、東光寺の如来様を田深西林寺に御光入奉り侯。
その後負ひ奉り候者の総身叶ずして終に相果て申し候。
丸小野より小原まで負ひ奉りし七兵衛も右の訳。案ずるに、公の役人儀重く申付に従ひ斯る稀代の尊さ御本尊様に心口の精進もなき不浄の体に脊覆ひ奉る恐れ尠なからずと存じ候へばこの後は拝し奉るにも、構えて御膝ま近く近寄る事有るべからず。
西林寺元の御本尊様は亦小原より興導寺に御内り遊ばされ、唯今にては八幡宮御神前の御本地堂に御光入遊ばさせられ候。
右の通り御朱相知申さず候(意味不明)
丸小野村の百姓七兵衛と中す者当地へ参り仕り、書きしるし差上中候。以上。
明和六年酉二月
安松甚右衛門 印 |