武蔵町史より転載・・
山号:蓮臺山 寺号:西光寺 所在地:大字古広
宗派:禅臨済宗妙心寺派
本尊:木造阿弥陀如未坐像 丈一五〇糎
脇侍:木造観世音菩薩立像 丈五○糎
木造勢至菩薩立像 丈五〇糎
由緒:かっては恐らく天台宗の寺であったと思われるが、元和の頃、臼杵稲葉侯の菩提寺月桂寺大安和尚の弟子で後に万寿寺乾叟和尚の法嗣古渓和尚が、当地に来て改宗禅師として、自らぱ第二世となり、開山始祖に万寿寺丹山和尚を拝請した。
丹山和尚は前述大安和尚の肉兄であり、天正年間島津軍の来襲にあって焼失した万寿寺を復興整備した万寿寺中興の名僧である。
寛永十六年己卯(一六三九)五月十一日五十才をもって円寂、遺言により火葬に附して骨灰を大河急流に流させたが、ときの天子明正天皇は師の徳を讃えて徳興真聖禅師と勅謚された方である。
開基ぱ高原道運である。
本尊阿弥陀如来は、伝説によれば、岡の巴田氏の祖が信州善光寺より奉戴してこの地に来り、現巴田定氏裏の大石上に安置信奉していたものを、古渓和尚が西光寺再興の際に本尊仏としたといわれている。
寛文九年(一六六九)再荘厳を施したときの記録が、胎内銘として残っている。すなわち、中尊阿弥陀佛者聖徳太子之御作也
惟時寛文九己酉年住侶比丘者有志願依衆檀之助縁古佛尊像仝荘巌者也併二脇之菩薩令創造者也伏希者道體堅固億福安寧矣。
七月良辰 住侶古荊栄謹誌之
京都寺町下御霊太仏師左京
とある。
爾来現在に至るまで巴田一統は正月八日、この本尊の祭祀をするを例としている。 |
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なお当寺歴代住職は古渓、絶文、栴芳、白堂、洞雲、別山、延山、完圭、蓉洲、断崖、瑞雲、威山を経て現住台隆道に至っている。
薬師堂
弘法大師・清正公を併せまってある。この堂宇は高原一櫛翁の建築になるもので、合天井、須弥壇の獅子・雲龍等の彫刻は、翁の特に丹精を込めたものといわれている。
鎮守天満宮 七世延山和尚が太宰府天満宮より勧請して現地に奉祠した。
境内
国東塔 山門を入り左手の一段高い所に三界万霊塔とともに、国東塔一基がある。昭和三十二年三月二十六日付で大分県の有形文化財に指定されたものである。至徳四年(一三八七)の創建であり、総高二五八糎、構造様式上よりいえば、角閃安山岩よりなり、基礎第二重の四面に各二つの格狭間がある。台座ぱ極めて縮少されて、反花だけで高さ九一糎余りである。塔身には四面に伏勝地蔵・無二地蔵・諸龍地蔵・禅材地蔵の四体が浮彫してある。これは多くの国東塔が塔身に銘または梵字を彫ってあるのに対して変った形式をもつものである。
奉造立多宝塔右願者為現世安穏後世善所頓証菩提乃至法界衆生平等利益也
至徳二二年丁卯九月二十四日
開山 ■ ■
講衆 十七人
板碑 二基
釈迦三尊の種子板碑高さ七五糎、巾三五糎
弥陀三尊の種子板碑高さ七五糎、巾三五糎
石殿二基、地蔵塔々身一基がある。
当寺には当村出身の画家高原一柳翁の誕生仏の画像を始め仏画、またその子竹窓翁作の仏画・肖像画等が蔵されている。
境内に楓樹多く、古来より花紅葉の称で呼ばれておる。 |