目次へ 午後の部 芳本先生歴史講演
sub3-98d 2012年2月25日 文字は、の等巾フォント(MSゴシック)でご覧ください。

夷の八十八ヶ所

中山仙境の遍路道には、弘法大師石像がたくさん祀られている。これは、この地域に八十八か所ある。一番は霊仙寺の大師堂にあり、それが中山仙境に続き、近隣の集落へと繋がって、長小野集落に及んでいる。この配置図は霊仙寺に保管されている。※要調査:誰が何を目的に何時ごろ祀ったのか?
また、芳本先生は、大学の研究生の協力を得て、自らそれを調査記録したそうだ。
それは、新四国八十八か所と呼べる規模だが、残念なことに、盗難にあった大師石像もあるとの事。・・いつぞや、これも追いかけてみたい。(研究テーマ?)
※GPSで正確な場所の記録ができる。



隠山物語(かくれうとものがたり)

夷の中山仙境に登る途中に、隠山(かくれうと)と呼ばれる岩屋がある。この岩屋にまつわる物語である。

宇都宮重房(うつのみや のぶふさ)は平安時代末期から鎌倉時代前期の武将。宇都宮氏の祖である藤原宗円の次男中原宗房の長男。

「吾妻鏡」の文治2年2月29日(1186年3月28日)の条によると信房は造酒司正(みきのつかさのかみ)宗房の孫とある。豊前宇都宮氏の祖。

黒田孝高/黒田如水(くろだ よしたか/くろだ じょすい 1546−1604年)は、戦国時代から江戸時代前期にかけての武将・大名。豊前国中津城主。孝高は諱(いみな:生前の実名とか、死後にその人を尊んで贈る称号)で通称の「官兵衛」や出家後の「如水」の号で有名。豊臣秀吉の側近として仕え、調略や他大名との交渉などに活躍した。竹中重治(半兵衛)と双璧をなす秀吉の参謀であり、後世に「両兵衛」「二兵衛」と称された。キリシタン大名でもあった。子に黒田長政がいる。

黒田と宇都宮の関係
黒田は、宇都宮から嫁をもらった親戚関係にあったが、黒田は豊臣秀吉に付き、宇都宮は徳川家康方だった事で両家の仲は悪かった。
黒田孝高は、宇都宮を宴席に招待し、宇都宮重房や家来を騙し討ちにした。

騙し討ちを逃れた宇都宮の残党は、夷の険しい山に逃げ込み、籠った。この地を選んだ理由は、自然の要塞であり、また、霊仙寺の力が強かった事を頼った為であろうと芳本先生は分析している。

隠れ山に潜む残党は、地域住民と交流し、お互い助けながら暮らしていた・・らしい。


1600年、関ヶ原の戦いが起き、同時に、中央への進出を目論んだ黒田と、大友吉宗の戦いが起き、黒田軍は中津から高田城を攻め落とし、進軍して行った。途中、夷の谷を通り行く黒田軍を宇都宮の残党は、岩場から攻撃したとされる。

大友と黒田による、九州版関ヶ原の戦いが行われたが、大友吉宗に黒田軍は敗れた。黒田孝高の有名な家来、吉弘、宗之も壮絶な戦死を遂げた。吉弘は別府の吉弘神社に墓がある。

この戦いの模様を記録した軍記が2冊残されている。その一冊が芳本家に残り、もう一冊が稙田(わさだ)の山本家に残されている。芳本先生は、山本家に残る軍記を複写し、2冊をつなげて巻物にして保管されていると伺った。そのうち見せていただこう。

隠山洞穴に、石碑があり、戦死者ほかの記載が見られる。・・・との話を伺ったが、残念な事に落書きがされ、見るに耐えない状態と化している。