目次へ 午後の部 芳本先生歴史講演
sub3-98e 2012年2月25日 文字は、の等巾フォント(MSゴシック)でご覧ください。

六本杉物語
足利尊氏の手植えとさ言い伝えられてきた六所権現にあった六本の杉の物語

今は、既に切り倒されて見る事は出来ない。写真が三重小学校に残されていると聞く。また、香々地の割烹梅乃屋の玄関に、六木杉の枝で作った飾り物が残されている。
さらに、楽庭社の参集殿には六木杉で作られた衝立がある。

以下は芳本清一郎先生のお話
                   ・
足利尊氏が戦勝祈願を目的にお手植えされたとの伝説がある。
香々地の地頭田原や足利尊氏の家来他が関わって植えてのでは無かろうか?

この杉が枯死し始めたので昭和53年、佐伯の銘木業者に売却した。

枯死寸前と診断したのは、大阪の樹医山野忠彦氏。当時90歳を超えていた。
沖縄からの帰路に立ち寄り診断した。診断・治療に必要な機材一式を満載したトラックに乗って来た。

この樹医さんは、木の肌を手で撫でれば樹齢が分かると言っていた。

楽庭社にも大きな杉の古木があったので、樹医さんを連れて行った。彼は、その古木を見て、「このままでは枯れる」と診断した。
また、「千年経っている」と診立てた。

少々傷んで枯死寸前だった古木を、山野樹医は治療した。枝の枯れ落ちた空洞を黒い薬で塗り固めた。その後、新しい芽吹きを確認したが、残念なことに台風によって倒れた。

六木杉は、臼杵の銘木業者が買った。枯死寸前の4木を1木当たり2千万円、計8千万円の値をつけた。

当時、芳木先生の従兄弟が六所権現社の宮総代と香々地役場の担当をしており、先生も教育委員会の役職だったので、情報が得られた。

伐採時は、重機の出入りの為、白壁の塀を取り壊して道を確保した。

45トンクレーを入れ、上部を吊りながらチェーンソウ(エンジンノコギリ)で伐採した。

伐採したのは、福岡市ハ女郡の中村武男氏。当時の話では、この様な巨木を伐採できる人間は九州に4人しか居ないとの事だった。
中村氏は、クレーンのワイヤーで中吊りになりながら、上部から8mの長さに切り落として行った。



伐採した長さ8mの丸太は、トラックに載せて大阪の銘本店に直送された。
もし、この六木杉は稀にみる銘木であることから、木の価格が満足いかなければ叩き売らず佐伯に持ち帰るとの事だった。

六木杉は、大阪で満足いく価格で売れたとの事。
木は、薄く加工され、天井板に加工される。薄く加工することで広い面積となり、それなりの販売価格となるとの事。

残る2本の杉も平成元年に同じ銘木業者に売却された。 2木で6千万円強だった。

切り株の年輪を当時の文化財調査委員長をしていたみすみかんいち先生とともに数えてみたが、384まで数えた。

樹医の山野先生は、この木を撫でて、「足利尊氏の時代に植えたものとは違う」と言われたそうだ。
それよりかなり後に植えられたものと診断した。

江口章子

吉田光由