目次へ 午後の部 芳本先生歴史講演
sub3-98c 2012年2月25日 文字は、の等巾フォント(MSゴシック)でご覧ください。

出発点に戻り着いた。昼を少し過ぎている。芳本先生の待つ佐古の公民館へ向かう事とした。

芳本先生よりの情報で公民館前の橋が工事中の為通行できなとの事。一つ手前の橋を渡り、土手沿いの狭い道を迂回し公民館へ向かう。

神社境内にある佐古公民館に12時20分到着。
芳本先生の姿はすでにあった。急いで神社の手水鉢で汚れた手を洗い、公民館に上がり込んで、各自持参した弁当を押し込んだ。

芳本先生は、だいぶ前に到着されていた様子。本日の講演資料を壁に掲げ、エアコンで部屋は温まっていた。

弁当を押し込みながらも先生の話は助走に入る。

講演開始予定の1時少し前、先生の講演が始まった。

公民館の壁一面に先生手作りの資料が吊り下げられている。それを指し棒で指しながら懇切丁寧な説明が始まった。

公民館には、「大友能直」、「江口章子」、「隠山物語」、「六本杉物語」、「吉田光由」、「神仏習合」、「隠れキリシタン」の資料が準備されていた。

非常に興味深い話だった。先生は、このような歴史の事実を後世に伝える重要性を強く感じておられる。

その気持ちが、私たちのような少人数の年寄りにも講演してくがさるのだろう。

感謝である。また、このような機会をお願いしたい気持ちである。お忙しい中を私たちのために時間を頂きありがとうございました。



        芳木精一郎先生講演から

自己紹介他

教職を30年間勤めた後役場に20年勤務。現役教職時代、香々地町内の石碑に興味を持ち、記念碑ほかの石碑を調査し、町民に知らせようと活動した。高い碑には梯子を掛けて上り、望遠鏡でのぞき、風化激しく読みにくいものは天花粉を叩き付けて解読した。当時の「香々地広報」に1ページをいただき、月に一つの碑を紹介した。

この情報は、町内の町民のみならず、町外や県外に散らばる町出身者にも配布し大変な好評を得た。

その喜びから歴史の調査や記録に努め、歴史を後世に繋ぐ事を使命と考え、多くの遺跡や歴史上の言い伝え他を記録に残す作業を継続している。

先生は、自己を研究家では無いという。情報は、地域の皆さんや先輩諸氏のお話や書物から得たもと謙遜された。

御年84歳を越え、今なお背筋の伸びた姿勢とはっきりとしたお話ぶりは、ご高齢を感じさせない。今なおエネルギーに満ちた芳木精一郎先生である。

その−1 

先生の話は、大友能直から始まる。そもそも大友能直なる人物は、源頼朝の嫡子と云われているが定かで無い謎の人物。源頼朝と白拍子(名前は不明)の間に生まれたとも云われている。

その子が「曽我兄弟の仇討]話で有名な曾我十郎柿成と曾我五郎時致の兄弟で、その兄弟が、父の敵である工藤祐経を富士の巻狩りの際に討ち果たすが、兄十郎は仁田忠常にその場で討たれ、弟五郎も後日斬首された。この時仇討の手引きをしたのが虎女であった。

虎女が、仇討の手引きをしたとして源頼朝が裁判をしたが、大友能直がかばったために重刑とはならず、その後虎女は大友能直をたより別府に居住したとされる。

虎女は、恋人であった曾我十郎祐成の供養のために、全国に供養塔を建ててまわったとされる。
この供養塔の事を虎女に因み「虎御前」と呼ぶようである。

言い伝えでは、19歳で芸者をやめ、出家し、供養の旅に出て、各地に供養塔を建てた。
・・・以上芳本先生の説明

19歳から始まった若き女性がその財源をどう工面したか、謎は多い。

香々地にも虎御前と呼ばれる宝籤印塔が3か所ある。その一つは、中山仙境の尾根にあり、もう一つは、オレンジロード(広域長道)佐古のトンネル上にある。「虎御前に雲がかかったから夕立が来る・・」と、トンネル上の宝籤印塔を指して地域の人は言うそうだ。

さらにもう一つの虎御前と呼ばれる宝籤印塔があるようだが、聞き漏らした?

【WEBからの情報】

 WEBで曽我兄弟を検索すれば、かなりの情報が確認できるが、どの情報も確たるものではなく、物語化された伝承の様にも感じる。物語が口承によって各地に伝わり、石造物を虎女が曾我十郎祐成供養の為のものと想像あるいは聞き及んだ結果ではなかろうかとも思う。

 虎御前と呼ばれる石造物は、国東市古木の九重塔ほか数多く存在する様だ。

白拍子
 白拍子(しらびょうし)は、平安時代末期から鎌倉時代にかけて起こった歌舞の一種。及びそれを演ずる芸人。あるいは芸者。
白拍子を舞う女性たちは遊女とはいえ貴族の屋敷に出入りすることも多かったため、見識の高い人が多く、平清盛の愛妾となった祇王や仏御前、源義経の愛妾となった静御前、後鳥羽上皇の愛妾となった亀菊など貴紳に愛された白拍子も多い。また、微妙や磯禅師等、歴史に名を残す白拍子も多い。

虎御前
 虎御前(とらごぜん 安元元年(T175年)−?)は、鎌倉時代初期の大儀の遊女で、曾我祐成の妾。お虎さん、虎女(とらじょ)とも呼ばれる。富士の巻狩りの際に起こった曾我兄弟の仇討ちを描いた「曽我物語」で、この物語を色づけ深みを持たせる役割をしている。
「吾妻鏡」にも出てくることから実在した女性とされる。

「吾妻鏡」によると、建久4年(1193年)5月28目に曾我兄弟による仇討ち事件が起こった後、6月1目に曾我祐成の妾である虎という名の大磯の遊女を召し出して訊問したが、無罪だったため放免したと記されており(建久4年6月1日条)、6月18目には虎が箱根で祐成の供養を営み、祐成が最後に与えた葦毛の馬を捧げて出家を遂げ、信濃善光寺に赴いた。その時19歳だったと記されている(建久4年6月18日条)。

虎女と曾我十郎祐成の出会い
兄の十郎祐成と弟の五郎時致は早くから父の仇を討とうと考えていたので妻妾を持つことを考えなか
ったが、五郎の勧めもあり妾を持つことになった十郎は、自分が死んだ後のことを考え遊女を選んだと
いわれる。虎と十郎は会ってすぐに恋に落ちる。虎17歳、十郎20歳の時であった。

仇討と兄弟の結末
虎が19歳の年、建久4年(1193年)5月28日に源頼朝が催した富士の裾野での狩りに夜陰に乗じて忍び込んだ兄弟は、父の仇の工藤祐経を討ち取る。しかし、十郎はその場で新田忠常に切り殺され、五郎も生け捕りになった後、頼朝直々に取り調べられて処刑される。

その後の虎女
十郎の死後、兄弟の母を曾我の里に訪ねたあと箱根に登り箱根権現社の別当の手により出家する。その後十郎の供養のため信州の善光寺に参る。大磯にもどった後高麗寺山の北側の山下に庵を結び菩薩地蔵を安置し夫の供養に明け暮れる日々を過ごした事が山下(現、平塚市)に現存する高麗寺の末寺であった荘巌寺に伝わる「荘巌寺虎御前縁起」に記されている。

「曽我物語」の生成に深く関わりながらその小庵で63年と言われるその生涯を閉じる(虎女の生涯は嘉禄3年(1227年)2月13日没、享年53と言われてきたが、最近の研究では没年は嘉禄4年(1238年)とされる)。

石塔と虎御前
WEB情報では、虎御前と石塔との関係は見いだせなかった。曽我十郎五郎の物語が広く全国各地で語られた事から、その結びつきが生まれたとも考えられるが‥‥

宝篋印塔(ほうきょういんとう)は、墓塔・供養塔などに使われる仏塔の一種。起源は、中国の呉越工銭弘似(せんこうしゆく)が延命を願って、諸国に立てた8万4千塔の形をまねて簡略化したものだとされている。これは、インドのアショーカ王が釈迦の入滅後立てられた8本の塔のうち7本から仏舎利を取り出して、新たに8万4千塔に分納したという故事に習ったものだという。

目本には鎌倉中期以後に造立が盛んになった。

・名称は
 宝篋印陀羅尼(宝篋印心咒経/ほうきょういんしんじゅきょう)を納めたことによる。五輪塔と同じく密教系の塔で、鎌倉期以降宗派を問わず造立されるようになった。

・構造
 宝篋印塔の各部と名称最上郡の棒状の部分は相輪と呼ばれる。相輪は、頂上に宝珠をのせ、その下に請花(うけばな)、九輪(宝輪)、伏鉢などと呼ばれる部分がある。

・意義
 宝篋印塔は、もとは密教系の石塔ではあったが、鎌倉期以降は宗派を超えて造立されるようになった。
滅罪や延命などの利益から、追善(死後に供養すること)・逆修(生前にあらかじめ供養をすませること)の供養塔、墓碑塔として、五輪塔とともに多く造立された。