|
|
|
|
|
|
sub3-76 2006年9月9日 文字は、中の等巾フォントでご覧ください。 |
|
|
|
 |
|
|
|
|
|
今日は朝から雲行きが怪しい。杵築市大田(旧大田村)の波多方(はだかた)ご出身のかたから取材リクエストをいただいたので良いお天気を期待していたのだが今にも降りそうである。
グズグズしているうちにバケツをひっくり返したようなどしゃ降りとなった。
まあ、少しは雨も途切れるだろうと家を出た。
大田の俣水を過ぎたあたりから雨は少し小ぶりになって波多方峠を越えると小雨になった。
波多方峠を下りはじめて高田から杵築へ通じる道へ逸れて、さらに山香へ通じる道路へ向かう。
仁王さんのある鷂(たか)神社前を通り鮎返の集落へ通じる道を上っていく。 |
|
 |
|
|
|
|
|
|
 |
|
少し乾きはじめて秋の気配があったのだが、この雨が空気をすっかり湿らせて蒸し暑い。
少し上ると道は細くなって対向車が気になるが、全く行き交う車は無い。
ここには珍しい石像があることに気づいて車を停める。
ふくよかな女性が赤ちゃんを抱いてお乳を与えている像である。全体の造形は観音様だが・・・
誰が何を目的にここに祀ったか?誰かに尋ね様にも人の気配は無い。
雨は霧雨になって私の取材を助けてくれているかのように感じる。 |
|
|
|
|
|
|
鮎帰地区 |
|
|
 |
|
|
|
|
|
 |
|
さらに道は細くなって曲がりくねりながら山肌を上って行く。
突然大きな池が現れた。この谷間に広がる水田を潤す溜め池だろう。これからの夏に備えて満々と水を湛えている。
伸びた草を刈る刈り払い気のエンジン音が聞こえている。
池を左手にさらに上ると右手に大きな石碑が目にとまった。車を停めて大きな石碑に近づいて見ると、「大分県行進曲春鳥歌碑」と書かれていた。 |
|
|
|
|
|
|
 |
|
|
|
|
|
大分県行進曲 |
早速WEBで調べてみようとアクセスして作詞者の庄武憲太郎なる人物に関する情報を得ることが出来た。・・・http://www.coara.or.jp/~yuki/minyou/9401.htm
その情報によると、・・
平成6年版大分県民手帳の巻頭に、〃大分のうた〃として真っ先に掲載されているのがほかならぬ「大分県行進曲」である。 歌入りのローカルマーチとしても名高いこの行進曲は、昭和10年に〃豊州新報〃(大分合同新聞社の前身)が、創刊50周年を記念して歌詞を公募、その一位入選作に曲を付けたものである。
作詩者・庄武憲太郎(昭和20年歿)は、大田村出身。国語・漠文を専攻、旧制中学で教鞭をとるかたわら作詩活動を続け、詠進歌・消防歌・校歌など数多くの秀作を残す。
・・とあった。
下の詩をクリックすると歌を聞くことが出来ます。
ファイルは、リアルオーディオ形式 *.ra です。クリックしても聞けない時は、プレーヤーを以下のREALマークをクリックしてダウンロードしてください。
 |
|
|
|
|
|
|
 |
|
|
|
|
|
歌碑裏面
故庄武憲太郎先生歌碑建設委員会
委員長 財前金利
副委員長 大塚金之 阿部正利
会 計 石川一義 井上英人
委 員 長井美智男 渡辺哲也
金丸美馬 酒井辰男
大塚勝充 阿南和雄
協 賛 大分合同新聞社 |
 |
故庄武憲太郎先生近親者
妻 庄武志花子
弟 庄武日吉
弟妻 庄武不二
長岡美代子
庄武吉明
工藤アサコ
小串こずえ
庄武和明
庄武和敏
長部テル子
中野和美
庄武隆博
庄武花容子
庄武寿也
庄武潔
親族発起人 工藤信之 |
|
|
|
|
|
|
ブラブラと歩いていたら、先ほど草刈り機を動かしていたお爺さんが草刈り機の整備をしていた。
歌碑の事をお尋ねしようと声をかけてみた。
お名前は酒井さん。歌碑は、この村出身の庄武憲太郎さんをたたえて建てられたもので、歌碑の裏には作品の「大分県行進曲」が刻まれている。と教えてくれた。
さらに、歌碑の裏の家には庄武憲太郎さんのご親族がお住まいだから話を聞けるのではと・・・
地域の事、酒井さんの事、等々世間話で作業の手を休ませてしまった。
酒井さんありがとうございました。 |
|
 |
|
|
|
|
|
|
 |
|
酒井さんにおき聞した庄武さんのご親戚の庄武吉明さんにお目にかかろうとゆっくり歩きながら歌碑のあった場所へと戻る。
途中 急傾斜地崩壊危険個所 鮎帰地区の危険警告表示の看板があった。
道沿いには数軒の民家があるが人影は見えない。
殆ど車の通りは無いが、とれたてのカボスや野菜を並べた無人販売所があった。
はたして売り上げはあるのか?
そんな様子を眺めながら歩いて、歌碑の前に戻りついた。
早速、庄武吉明の表札が掛かった玄関の戸をノックすると庄武吉明老人が現れた。
ここをお訪ねした経緯を説明して話をうかがった。
吉明氏は、少年時代をこの上にあった生家で過ごした。東京へ出て仕事をしていたが、定年をむかえてから故郷への思いを強くし、この地へ家を建てられたそうだ。
田舎暮らしは何かと不便で費用も掛かると、また、単身赴任だとも言い笑っておられました。
またお邪魔することをお許しいただきました。
今日は、少々お天気がすぐれず、抜けの悪い画像を並べることとなりました。
是非良いお天気の時にもう一度取り直しをしたいと思います。
ゆっくりした時間とその時間の中で新しい発見が出来たことに感謝して今日の散歩を終えました。 |
|
|
 |
|
|
|
|
|
|
|
 |
|
|
|
|
|
依頼者のasadamuraさんからこんな書き込みをいただきました。 |
|
あっ、小さいころ泳いだ池が出てる!
行進曲の歌詞がそのままのっかってる。
石碑も苔で年をとったなあ。
あのおじいちゃん元気なんだ。
もう2人とも80歳を超えているのに。
田んぼも青々としている。山も黒ずむほど深い緑だ。
50年前毎日のように遊んだ池端や、畑がそのままある。
何一つ変わっていない。
時代に取りのこされたのか、何も手が入っていない。
そのまんま残っている。
写真で見ると、時代の移り変わりが全然感じられない。
この部落は今8軒人が住んでおり、子供は2軒だけ。
一人暮らしが3軒、残りは老人二人ぐらし。
20年したら、2軒しか人がすまなくなる。
もっとも都会に出ているひとが帰れば別だが。
私も田舎に帰って、生まれ育った故郷がさびしくならないように考
えるとするか;;。
この写真をみながらそんなことを考えています。
インターネットの力はスゴイね。
ここまで、やってくださるとは、お礼のいいようがありません。
これから親戚、友人にPRします。
まず、合同新聞にいる先輩からはじめます。
青鬼さん、本当に感謝します。
見ず知らずの通りすがりのstraingerにここまでしていたけるとは、
感謝 感謝です。
とりあえず御礼申し上げます。
葉山町 asadamura. 拝。
asadamura とは,朝田村、昭和30年大田村になる前の村の名前です。
[2006/09/11(Mon) 09:34] |
|
|
|
|
|
|