一松邸説明
一松家関係の文書には、武術に関する目録(免許状)が多数遺されています。
宝暦七年(一七五七)一松庄七宛の新抜流剣術・抜術・取手術の目録、寛政一・二年(一七八九〜九〇)の常右衛門宛目録、天保十四年(一八四三)には忠造宛の宝蔵院流鎌鑓の目録等があります。従って一松家は、代々剣術や槍術の指南役として杵築藩に仕えた家柄と思われます。
嘉永五年(一八五二)の藩士帳には、一松忠造は小性上席(十三石三人扶持)とあります。
一松定吉氏は明治八年(一八七五)、美和村(現=豊後高田市)の神職波多宗直の二男に生まれました。
明治二十六年大分師範講習科(現=大分大学)を卒業し小学校教師となりました。二十四歳の時、杵築町(現=杵築市)一松能安氏の養嗣子となり長女モトと結婚。明治三十二年上京し、浅草で小学校教師をしながら明治 |
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法律学校(現=明治大学)に学び、明治三十六年判検事登用試験に合格。判事・検事として活躍すること十八年、大審院(現=最高検察庁)検事にもなりました。大正九年弁護士となり、その後『政治』を志し昭和三年以来衆議院議員連続八回当選。昭和二十五年からは参議院議員連続二回当選。この間国務、逓信、厚生、並びに建設の各大臣に就任。政界に活躍すること実に三十有四年、この間の功績が認められ勲等瑞宝章、そして勲一等旭日大綬章を受けました。
一松邸に建てられた立像の右側に彫られた碑文は、昭和四十二年ときの「内閣総理大臣佐藤榮作」氏の撰文によるものです。
一松邸は、昭和三十二年杵築市に寄贈され、
これまでは「会館」として市民に親しまれてきましたが、市庁舎の移転に伴い、この地に移築し保存・継承するものです。
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