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由緒
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椿八幡神社は、宇佐神宮の分祠で、天平神護元年(七六五)十月八日神託によって御在所山に鎮座した。凡そ二百六十年間に数度の野火に遭い治安三年(一〇二三)の火災を機に、現在地に社殿を造営し、御神体を安置した。
爾来宇佐神宮の末社への行幸会が、六年に一度執行されたが、元和二年(1616)頃途絶えた。
当時の郷社椿八幡の氏子は小原、上小原、黒津、次郎丸、綱井、重藤両子、諸田、新、中村、小俣、富永、恒清、久末、油留木、吉松、七郎、一之瀬、武蔵町分(十五村)は記載省略、の三十三村であったが、江戸前期にには二十五村となり、末期には十八村となって現在に至っている。
鎌倉以降領主は崇敬があつく、特に今市城主の武蔵田原氏は社殿の造営に意をそそいだ。
江戸時代の松平氏は、藩主自ら施主となり、豪商・豪農・庄屋の寄進により造営・修復工事を施工し、庶民は労働奉仕をした。
昭和十三年(一九三八)八月二十七日県社に昇格された。
御神木樟は、治安三年現在地に遷座の際の記念植樹であると伝えられている。 |
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武蔵港から両子へ通じる県道55号線を1.7km程上り、武蔵川に架かる最初の橋(55号線では最初の橋)を渡る。道なりに数百メートルで椿八幡へ到着する。
大きな楠が鎮守の森を形作り、県道55号線からも十分に認識出来る。
社に到着すると樟の木の大きさに圧倒される。 |
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社へは正面の大きな鳥居をくぐり、石造りの太鼓橋をわたって、さらに山門をくぐって社殿にたどり着く。
太鼓橋には、わずかに残る朱色の塗料が建立時の華やかさをうかがわせる。
欄干の朱と擬宝珠の黒が光り輝く様を想像しながら太鼓橋を渡る。 |
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太鼓橋の右向こうには、たくましく境内の地面に根を差し込む大きな楠が天にそびえる。
社の由緒書きには、この神社がこの地に 移された治安三年に記念植樹されたとある事から、約980の年輪を持つ古木となる。
台風銀座とも言
われる国東半島に980年間生き続けた楠の生命力に驚きと奇蹟を感じる。
太鼓橋から真っ
直ぐに本殿へと続く石畳を大きな山門が覆う。
圧倒的な重圧感
を放つ山門は、ここをくぐる参拝者の雑念を払う。 |
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背筋をぴーんと伸ばして立ち、軽く一礼し、深々と二礼する。
力を込めて二拍手を神殿に響かせる。
しっかり本殿に視線を定めて願い事を唱える。今年も健康であることを願い、深々と一礼をする。
しばらく、賽銭箱を背に神殿に腰掛けて境内を眺める。
山門の向こうに鳥居があり、参道が真東に向かってまっすぐ延びている。
小春日和の今日は、居心地の良い場所だ。
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本殿の南側から裏へ。本殿を見上げて、その作りにおどろく。いつか、テレビで見た法隆寺の五重塔修復を思い出した。
神殿の構造がその時見た木組みとまるで同じである。複雑に削り出された個々の部品を精密に組み合わされ、鉄の釘を全く使わずに造られている。
この建築技術も驚きに値する。しかしながら、社の老朽化は激しく、貴重な文化遺産の修復が必要なことを強く感じる。
信仰深い時代は、豊かさと相反して薄らいできた。今の時代に巨額の財を投じて修復は非常に困難で有ろうと思うが、修復を強く願いたい。
社には東西南北に4つの鳥居が有る。この歴史も調べて見たい。 |
信仰の強さは計り知れなく大きい。
信仰は、人の心を救い豊かにする。 国東半島の仏文化は良く知られているが、神の信仰も同様に国東半島の文化である。 |
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