目次へ ・・ 三郎丸/安岐町 ・・ sub3-04   2000年10月01日 

三郎丸・・私の小学校が三郎丸の高台にあった。
学校の帰りには毎日といって良いほど三郎丸の同級生の家に立ち寄って遊んだ。
戸数30戸ほどのこの地域は軒を寄せ合う様に人家が建ち並び、家と家の間をぬう道路は迷路のよう感じた。
今歩いてみても当時とあまり変わらない家並みであった。なつかしい吉岡畳屋や佐藤俊哉君の家やお堂も殆ど当時のままである。その狭い道を通り過ぎ、坂を少し登った所に小学校があった。昼休みや放課後に遊んだ講堂の裏山には当時のままの姿の貯水タンクやお地蔵さんを発見できた。そして、冬には厚い氷がはった池も・・・・
ゆっくり、ゆっくりと当時を思い起こしながら歩いた。曲がり角の先から誰かがあらわれることを期待しながら・・

霊峰妙見山のふところに30軒あまりが軒を寄せ合って不思議な迷路を作っているのが三郎丸地区。
この不思議な空間は小学生の私をとてもわくわくさせてくれました。

吉岡君の家は畳屋で、藁をたたいて畳にして行く作業を見せてもらいました。佐藤君の家にもよく遊びに行きました。

豚も三郎丸ではじめてみました。道路の端の小川をせき止めた水たまりには大きな鯉が泳いでいました・・・・三郎丸・・

狭い路地の間を歩いてみた。どこまでが道路で、どこから人の家の庭かわからない。小学校の帰りにランドセルを背負ってこの迷路でかくれんぼをしたことをおもいだす。

今日は誰にも遭わない。・・

昔は土の道だった。雨が降れば水たまりが出来て、ゴムの長靴で水たまりを楽しんだ。乾くと小石がごつごつとして、浮いた砂が時折足をすくって転ぶこともあった。本当は、舟道という、少し上の部落の下を通って帰るのだが、どうしてもここへ寄り道してしまう。どうしてだかわからないが、私たちを引きつける魅力があった。

コンクリートに粗目の砂を混ぜてたわしで洗い出したざらざらのながい塀が大きくカーブして吉岡畳屋の向こうへ続いている。この壁を右手で撫でながら緩い下り坂を走った。

豚の小屋を鼻をつまんでのぞきにも行った。大きなお母さん豚のお腹のおっぱいに子豚がたくさんぶら下がってお乳を飲んでいる姿がとても可愛かった。一匹で良いから家に連れて帰りたいと思った。

三郎丸は楽しい思い出の詰まった遊園地かもしれない。

この坂を上ったところに私の母校南安岐小学校があった。高い石柱の校門があって、その向こうに大きな桜の木があった。

大きな桜の木は、春に満開の桜をみせてくれた。

入学式の胸の高まり、はじめての遠足、足をぶつけて痛かった運動会、寒くて凍えながら食べた冬の弁当。

何もかも楽しい思い出の小学校。その小学校も国東半島を襲った大水害から数年して、ここ三郎丸から下山口へと移転して新しい校舎となった。
 
 
小学校は遠くの昔に取り壊されて、蜜柑が植えられていると聞いたが、その蜜柑も枯れて
しまい、セイタカアワダチソウが茂っていた。走り回った校庭も、大きな桜の木も遠い思
い出だった。

学校の上にあった池や貯水タンクや庚申塔は昔のままだった。寒い冬には厚い氷がはった
池も私の記憶のままだった。
 
 
 
小学校は遠くの昔に取り壊されて、蜜柑が植えられていると聞いたが、その蜜柑も枯れてしまい、セイタカアワダチソウが茂っていた。走り回った校庭も、大きな桜の木も遠い思い出だった。

学校の上にあった池や貯水タンクや庚申塔は昔のままだった。寒い冬には厚い氷がはった池も私の記憶のままだった。