道園(どうぞの)線刻板碑他
楽庭社(がくにわ社)から西夷野谷へ上るY字路の橋を渡って直ぐの左手に板井家がある。板井家は、中山仙境へのトレッキングコースの入り口に位置する。
板井家の庭先を通り、右手方向に進むと沢山の五輪塔他の石造物が並んでいる。現板井家の駐車場にあったものをこの場に移したと聞いた。
五輪塔や国東塔などがやや組み合わせ怪しく並べられている。
ここを過ぎ、少し歩くと立派な説明書き看板が立っている。 |
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芳本清一郎先生に説明をいただき、遺跡へ通じる道をのぼる。 以下は説明書きの転記
県指定 道園線彫板碑(どうぞのせんぼりいたひ)
時代は不詳。宝篋印塔(ほうきょういんとう)・五輪塔などの林立している。
背後の岩に線彫りされており連碑となっている。
岩は二つになっており右の岩に二十一面ある。高さ百四cm、幅十cmで連立して並んでいる。
左の岩に二十九面ある。高さ百十九cm、幅十五cmである。浅い線彫りなので見にくくなったところもある。
ずっと左方の岩にも二十一面ほどの線彫連碑がある。
昭和二十八年県指定有形文化財に指定された。
香々地町教育委員会 |
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自然石の石積みでつくられた二十段ほどの石段を上りきると、正面に高く垂直に聳える岩壁がたちはだかる。岩壁の手前にはほどほどの広さの平地があり、その平地の左手には朽ち果てる寸前の御堂がある。御堂には「一番尾鼻堂」と書かれている。
正面の岩壁下方には龕祠があり、中には薬師如来、弘法大師、観音菩薩が祀られている。
祠の上部には一番尾鼻堂と刻まれている。製作は昭和七年と有るが、元々あった龕祠に新しい枠を作り、仏像を祀ったのでは無かろうか。
「一番尾鼻堂」の尾鼻堂については今後の研究テーマとしよう。
以前は、熊野の権現様として信仰していたとの記録がある。 |
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正面右上に目をやると、岩壁の上部に石祠が祀られ、その右手の岩壁が綺麗に削られている。これが、説明書きにある「
ずっと左方の岩にも二十一面ほどの線彫連碑がある。」の線刻連碑だろう。
山本氏が急な岩壁をよじ登ったが、詳細は確認できなかった。
下から見上げると、平らに削られた岩壁に微かに板碑の並び(連碑)が見える。その上には丸く掘り下げられた平面があり、梵字が刻まれている事が想像出来る。
是非、私も上ってこの目で確認したいのだが、底の薄いスリッパみたいな靴で来てしまった事を深く反省する。 |
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更に左へ進むと、大きな石というか岩というかが二段に積み重なった壁があり、その谷側斜面に無数の五輪塔や宝篋印塔(ほうきょういんとう)他の石造物転がっている。
大きな二段の石の端面を見ると、五輪塔が浮き彫りされている。形や彫りの様子から、先ほど見てきた「梅ノ木磨崖五輪塔」と同じ時代に同じ石工あるいは同じ系統の石工によって刻まれたものと想像する。完成度の高い見事な造形の五輪塔である。
上り来るまでは想像だにできなかった祈りの空間に絶句する。
先ほど通ってきた、朽ち果てる寸前の「一番尾鼻堂」が建っていたあたりに天台の寺院があったのではないだろうか。 |
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正面から見ると、上の石が屋根の様にみえる。もしかしたら、二つの石は人為的に重ね合わされたのではと想像するが、鎌倉末期から室町初期の製作と考えれば?・・・
上に乗る三角形の大石には、直径が1m程の円輪が彫られている。円輪の中には、キリーク(阿弥陀)、サ(観音)、サク(勢至)の種子(しゅじ)が彫られている。
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キリーク
(阿弥陀) |
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サ
(観音) |
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サク
(勢至) |
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これは、阿弥陀三尊をあらわし、阿弥陀信仰から観音信仰へ移行した浄土思想が表現されている。
下段の四角い石には、高さ約1m、幅15.5cmの線彫りで板碑が二十四基連碑されている。
「国東半島の歴史と民族 著者梅原治夫氏 昭和49年発行」による。 |
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