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musashi-e |
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第9回 み仏の里くにさきウオーキング
「戦国武将吉弘氏を訪ねて」~武蔵町周回コース |
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202年5月13日 |
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吉弘城跡 説明書き転記
所在地 東国東郡武蔵町大宇吉広宇西ヶ谷
築 城 建武の頃(一、三三四)吉弘氏初代又次郎正堅の築城である。
城の輪郭
西ヶ谷の通称城山(城のつじ)の頂上に位置し、広さ約三、〇〇〇㎡に周囲約二〇〇m、深さ一~二mの横堀(堡塞)を廻らしている。
その中に土塁の跡、竪堀を思わせる遺構もある。
城と館跡約三〇〇mの間に、幅二mの通路跡があり、高さ一・五mほどの石垣・切り通しもあり、随所に石畳の遺構がある。城の南西三〇〇mに年中涸れることのない水源がある。
城 主
初代正堅は、大友能直の子、田原泰広の孫直貞の次男で、氏輔、氏広、真意、綱重、親利、親信、氏直、鑑理、鎮信、統幸と続き、正堅より八代氏直に至る約ニ00年間の居城である。氏直が屋山城に移ることによって九代鑑理から十一代統幸に至る約八〇年間は屋山城の支城となる。 |
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説明をいただいた室利則氏 |
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永泰寺 |
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武蔵町史より・・・
山 号 亀徳山
寺 号 永泰寺
所 在 国東市武蔵町吉広
本 尊 木造地蔵菩薩坐像
由 緒 現在は無住の庵地であるが、同寺と深い関係にある加藤一統のうち加藤義弘氏のところに、元禄年間(一六八八-一七〇三)西光寺絶文和尚が書き、さらに文化二年(一八〇五)永泰中興延山和尚(西光寺七代)が加筆し、さらに嘉永元年(一八四八)甲原漁荘先生が書き改めた永泰寺の変遷についての記録がある。
それによると
亀徳山永泰寺は往昔は頗る大寺で、官より御知行を頂戴していた寺院で最も繁昌していた。本尊は地蔵菩薩である。然るところ大友の時代国中一統大乱にたり永泰寺も零落し、その時御朱印等は残らず紛失してしまった。
それを加藤氏の先祖作兵衛が本堂の古跡に九尺四面の堂を造り本尊を奉安して爾来引続いて代々尊敬して来た。
そこに元禄年中西光寺絶文和尚が隠居所にしたいと申込んだので、現在の位置に竹林を切払って、改めて堂宇を建立した。
という意味のことが書いてある。しかし、これが古くなり平成元年、二間、二間半の堂宇を建立した。
同寺に残っている位牌を見ると、寺の開山牌があり、それには、当寺開山悟庵徹禅師大和尚となってしる。
すなわち正平年間田原直平の請に応じて、田原別府に蟠龍山宝陀寺を開いた悟庵禅師が開山であることが知られる。
これは考えるに、時代を同じうする吉弘氏初代の正賢が、悟庵禅師を聘して永泰寺を創建して、吉弘氏香華寺としたのであろう。
第二代宇山座元祐禅師、三代瑞峯座元祥禅師となり、四代中興絶文、五代洞雲、六代中興延山となっている。
境 内 当寺の前庭に墓一基があり、三重で総高三五五糎、上部は自然石の雄大なもので、上部に三巴の紋を刻み、正面に・・・ |
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永泰寺殿劫巌安心大居士
神祇
統雲院殿傑勝運英大居士 |
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と刻まれ、基礎第三重に次の如く刻ってあるが末尾が不明である。すなわち
蓋永泰開基統雲之先祖遺書存本邦石垣原討死慶長五庚子九月十三日令遺塔営矣伏祈祝
亀徳山代住 延山誌
化主琢首座 荘屋 高原氏
とある。すなわち文化の頃、やはり西光寺より当寺に隠居をされた延山和尚が建てたものであることが知られる。
この墓については、国東半島史の著者は、永泰寺殿は吉弘家旧記により七代親信を指し、統雲院殿は吉弘統幸であるとする。統雲院殿については問題ないが、永泰寺殿が七代親信であろうか。私はそうは考えない。大体寺の寺号を法名につける場合は、ほとんどその寺の開基に対してである。この場合永泰寺殿はこの寺の開基たる初代正賢か、または大友の兵火に罹り零落していった寺を復興して再建した加藤氏か、どちらかとすべきであろう。現在私は初代正賢の方をとりたい。つまりこの石塔は、吉広村の人々が、吉弘初代の正賢公と最終の統幸公との遺徳を追慕して建立したものと見るべきだと考える。
なお永泰寺の境内には世代および吉弘七代の墓地があり、七基の卵塔(無縫塔)と七基の五輪塔があり、これがすなわち吉弘七代の墓塔と見られている。そのうち卵塔は次のとおりである。
1、無縫塔 総高 一二六糎
2、 〃 〃 一二〇糎
3、 〃 〃 一二〇糎
4、 〃 〃 一二三糎
5、無縫塔 総高 九二糎
6、 〃 〃 一二二糎
7、 〃 〃 九二糎
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説明は、室利則氏 |
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前庭の墓 |
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加藤家 吉弘氏七代墓 |
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永泰寺に隣接した加藤家の庭先に吉弘氏七代の墓がある。暮塔は五輪塔の形で何の刻字も無い。加藤節子さんが墓を守っている。 |
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