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2011/9/10

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大分県国東市国見町赤根『赤根善神王祭』:(あかねぜんじょうさい)(市指定無形民俗文化財)

赤根一円坊社(山神社)と古旗社(天満宮)で交互に行われる神事(火祭り)

江戸時代中期、(明和1764-1771年から安永1772-1780年)十代将軍・徳川家治の頃(おおよそ230年前)、赤根の地元民が大分の賀来神社より「善神王」の分霊を勧請されたと伝えられている。勧請された御神体は、「勧請善神王」と墨書きした幟で、古い箱に収められているとの事。



善神王

国見町赤根地区では、「ぜんじょう」と呼ばれるが、他地域(大分市・杵築市他)では、「ぜぜんのう」または「ぜんじんのう-おう」と呼ばれる。

「善神王」とは、武内宿禰(たけうちのすくね)を神格化したもので、延命長寿、武運長久、厄除け、五穀豊穣、無病息災、家内安全の神様と云われている。「武内宿禰」は、景行・成務・仲哀・応神・仁徳の5代に渡る天皇に棟梁之臣(むねはりのまえつきみ:屋根の棟と梁のように国家の重任を担う臣)・大臣として仕え、実に283年間にも及び国政を補佐したとされる伝説的人物。『因幡国風土記』逸文には、360歳のときに因幡国に下向し、そこで双履を残して行方知れずとなり、双履が残されていた鳥取県鳥取市国府町の宇倍神社に武内宿禰を祀るとの記述がある。

赤根の善神王は、大分市の賀来神社から分霊を勧請したとされる。賀来神社について少し調べてみると、由緒に、古来、賀来善神王宮ともいわれてきたとある。御祭神は武内宿禰命、建磐龍命(肥後国・阿蘇神社祭神)の二柱で、建磐龍命は常時この社に鎮座されているが、竹内宿禰命は平時柞原八幡宮にあって、主君格の八幡さま(應神天皇)に奉仕し、秋季大神の11日間(9月1日から11日)だけこの社に帰られる。・・・とある。

また、柞原八幡社の由緒では、「善神王:武内宿禰」は,賀来神社の祭神であったが、柞原八幡(八幡様:応仁天皇)から「秋の十一日間だけ出仕(しゅっし)せよ」と命じられた。それを、十一日間だけが休暇で、それ以外は柞原八幡への出仕と思い込んだ。善神王は、賀来神社の秋期大祭(九月一日から十一日間)だけ賀来神社に遷り、普段は柞原八幡宮で八幡様の警護に就いている。

柞原八幡宮の仲秋祭(浜の市)は、八幡様が山を下るので、善神王も八幡様に従って遷座すると云われている。

八幡社の総本山である、宇佐神宮の境内の黒男神社明にも、武内宿禰が祀られている。善神王が応仁天皇との関わりから、八幡社に祀られているのであろう。

神は、分霊により、その力を何処にでも置く事が出来る。善神王こと武内宿禰は日本全国でどれくらい神としての力を発揮しているのだろうか。

宇佐神宮 黒男神社 武内宿祢肖像

赤根社

創立年未詳。
明治(1871)四年、村社に列せられた。
明治八年、古幡社を合祀したが、同八月、分離した。
明治十年三月、字仲小野、下二ツ井の二所の山神社を合祀した。
赤根善神王祭保存会の大石勝也代表「市指定無形民俗文化財(平成四年三月三十一日指定)


高良玉垂神(コウラタマタレノカミ)

福岡県久留米市の高良大社の祭神、高良玉垂神(コウラタマタレノカミ)である。
高良玉垂神とは、八幡神の第一の随神とされる神である。記紀神話には登場しない神明であることから、この神の性格をめぐってはいろいろと論議がなされてきた。

林羅山著「本朝神社考」によれば、「玉垂」の名の由来は、神功皇后が新羅に遠征して海上で戦ったとき、高良明神が潮の干満を操る呪力を持った玉を海中に投げ入れて戦勝をもたらしたことにちなむものという。神功皇后の事業をサポートするそうした事績から、この神を武内宿禰とするのが通説になっている。この神の神徳は武運長久である。