|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
T-1ee |
|
国東半島峯道ロングトレイル T-1 を歩く |
|
2015/1/31 |
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
朝日観音堂の焼け仏 |
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
夕日観音
夕日観音から、岩の割れ目を通って下り、すぐに左手に曲がると夕日観音。夕日観音には堂宇は無く、岩屋に観音様が祀られている。
ここから、宇佐神宮の荘園だった当時の景観を今に残す「小崎荘園」が眺望できる。 |
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
夕日観音からの小崎の眺望 |
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
小崎荘園景観展望台 |
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
展望台からの眺望
小崎景観(豊後高田市観光協会HPより転記)
律令制度の中で田染郷の平坦部は公地公民として農耕が行われていましたが、743年墾田永年私財法の成立によって、開墾した水田の私有が認められるようになって以来、この地を豊かな水田地帯にしようと雨引神社周辺(赤迫)より、幾多の人々や宇佐神宮の力によって、この土地の地形を利用して様々な曲線を描きながら不揃いな形をした水田が開発されていきました。
やがて開墾された水田は、宇佐八幡宮が支配する(中央に領主がいる一般の荘園とはやや異なった)荘園となり、ここに田染荘が誕生しました。
田染荘は、宇佐八幡宮の「本御荘十八箇所」と呼ばれる根本荘園の一つで、最も重要視された荘園でした。
その後、田染荘は時代の流れとともに大きく移り変わっていきますが、ここ小崎地区だけは、水田や周囲の景観を昔のままの姿で守り、受け継いできました。
荘園の里では、このすばらしい遺産を後世に残すことを決定しました。
○荘園領主制度
荘園の里では中世から引き継がれる景観を都市の皆さんと共有するため、毎年荘園領主(水田オーナー)を募集しています。領主には御田植祭や収穫祭などのイベントの参加や農作物の宅配をとおして荘園の里を満喫していただきます。 |
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
小崎荘園保存地区(観光協会立て看板転記) |
田染荘(たしぶのしょう)は、中世の村の呼称で旧田染村をいいます。荘とは、荘園村落のことで、中央の貴族や寺社が地方で所有していた土地(荘園)から発生しています。田染荘は、平安時代の終わりから鎌倉時代にかけて、全国屈指の荘園領主(九州内に二万町歩を越える荘園を所有)であった。宇佐神宮が最も重要視した荘園でした。
その中でも、小崎(おさき)地区は田染荘発祥の地で、宇佐神宮との深い結びつきのもと、荘園当時の姿をそのまま残す貴重な文化遺産となっています。又、荘園としての水田開発は、雨引神社の付近から始まったと言われ、水田の一枚一枚に歴史が刻まれ、荘園の起源や中世の水田開発を知ることができます。
小崎地区の現集落となっているところは、荘園の管理者である宇佐神宮神官、田染氏の住居のあとで、尾崎屋敷、飯塚屋敷、為延(ためのぶ)屋敷の名称が今も残っており、集落の原形がこの時代に出来上がりました。
尾崎地区の奥は、宇佐神宮と深い結びつきのある山岳仏教の修行の場で、多くの遺跡が残っています。
中世の村、荘園の里を心ゆくまでご覧ください。
|
豊後高田市観光協会 |
|
|
|
|
|
|
|
二宮橋 トイレがあります。 |
|
|
|
|
|
|
11:35 |
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
延寿寺 |
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
御堂園カフェ(みどぞかふぇ) |
お昼時だったので、ちょっと立ち寄ってみました。金・土・日・月の11時から16時までやってます。
石窯で焼いたパンとコーヒーがいただけます。 |
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
窯 |
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
11:42 |
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|