T-1cc 国東半島峯道ロングトレイル T-1 を歩く 2015/1/31
    


真木大堂の特色
 真木大堂は六郷満山六十五ケ寺のうち本山本寺として三十六坊の霊場を有した幻の最大の寺院であった馬城山傳乗寺のことである。

 奈良時代元正天皇の養老年間に仁聞菩薩の開基で悲陀の匠が建立したと伝えられているが、仏像の作風からみて平安時代と思われる。

 往時は広大な境内のなかに七堂伽藍を備えて隆盛を誇った大寺院であった。

 約七百年前に火災のために焼失したが、現存する九体の仏像は当時の人々の厚い信仰と守護のもとに難を免れて今日に至っている。

 この九体の仏像には、全霊を捧げ尽くして作られた方々の魂がこもっている。

 大正七年に国宝に指定され、昭和四年に仏像大修理、昭和二十五年八月二十九日に重要文化財に指定された。平成二十年収蔵庫改修、仏像修復された。

 附近には随願寺、成願寺、釈迦堂、芝堂、閻魔堂、黒草堂、城山四面仏等々あり、附近の畦畔には、石碑、石塔などが散乱しているのをみても昔の寺坊が各所に散在し往時の規模宏壮が偲ばれる。

 現在の真木天堂は、傳乗寺の各寺坊が衰退したので本尊をこの一堂に集めたものである。


不動明王とニ童子像
 不動明王は、悪魔を退散させ人々の煩悩を断ち切る明王である。

 背後に勇壮な迦楼羅焔(かるらえん)を負い、厳然岩座上に起立しており、木彫不動としては大きさは日本一で、雄大壮厳である。この明王の姿は、丸顔に天地眼と呼ぶ左眼を半開し、口端に牙を上下に出す天台系不動明王という。

 不動明王の脇には、向って右に慈悲の衿鶏羅童子(こんがらどうじ)、左にやんちやな制咤迦童子(せいたかどうじ)を従える三尊形式である。


阿弥陀如来座像
 本尊である阿弥陀如来は、私たちを極楽へ導いてくれる仏である。丈六(じょうろく)の坐像で桧材による寄木造りである。
全面に布貼下地、肉身に漆箔(うるしはく)、螺髪(らはつ)に群青、衣に朱が施されている。

 伏し目の円満相(えんまんそう)に優美な衣さばきや、やや面長で唇を強く引き結んだ面相(めんそう)、肩幅広く、厚みのある量感に富んだ体躯(たいく)と肉髪(にっけい)。盛り上がる大粒の螺髪など随所に各時代の特徴を見る。

 上品下生(じょうほんげしょう)の印(右手/施無畏印(せむいいん)・左手/与願印)、裳懸座(もかけざ)の上が蓮華座となり、その上に結跏践座(けっかふざ)する漆箔像で、光背は二重円光で六仏が配されている。


四天王立像
 阿弥陀如来のまわりに立する四人の守護神、四天王は、須弥壇(しゅみだん)(仏教における世界の中心の山)の四方を守護する神である。東方の持国天、南方の増長天、西方の広目天、北方の多聞天のことをいう。

 広目天は炎髪、他は宝珠のついた兜(かぶと)を被り、四天王はそれぞれに甲冑(かっちゅう)を纏い(まとい)、籠手(こて)や脛当(すねあて)を付け、沓(くつ)を履き、武器を持ち邪鬼(じゃき)を踏まえて、沈勇・静中動の姿勢で生気に溢れて立つ。


大威徳明王像
大威徳明王は、人々を害する毒蛇・悪竜・怨敵(おんてき)を征服するとされ、六面六臂六足(ろくめんろっぴろくそく)。で、神の使いであるスイギュウ(白牛)に跨かっている姿で表現されるのが一般的である。

六つの顔は「六道」=地獄界、餓鬼界、畜生界、修羅界、人間界、天上界を隈無く見渡す役目。六つの腕は、矛、長剣等の武器を把持し法を守護。六本の足は「六波羅蜜」=布施、自戒、忍辱、精進、禅定、智慧を怠らず歩み続ける決意を表している。

 また、この明王は頂上に更に三面を頂き、炎髪開口、牙を露出し、火焔光背を負い大忿怒相(だいふんぬそう)に表わされ、本面額に微かに第三眼が彫り出されているのがわかる。

 肉取り厚く、穏やかな体躯、おおらかな忿怒相の明王、静かに蹲る(うずくまる)スイギュウの堂々とした量感。大威徳明王の像としては大きさ日本一で動物の木彫としても大きく珍しく、九州に残る密教彫刻の大作として注目すべき存在である。


菊花の紋章と旧本堂
 旧本堂の正画の扉に菊花の紋章がある。これは、約七百年前蒙古軍の来襲のとき鎌倉幕府は教書を発し豊 後守護職はこれをうけて六郷満山の寺院に対して異国降伏の祈祷を行うよう施行状を発した。

 仁聞菩薩八幡大菩薩の霊場であり三十六坊の霊場を有し六郷満山の長講所(学問所)であり六郷満山六十 五ヶ寺の中枢であった馬城山伝乗寺で国難を救うため長期にわたり異国降伏の大祈祷が行われた。

 その恩賞として弘安八年十月十六日に将軍家を経て朝廷より菊花の紋章が下賜された。

 近時全国各地より訪れる多くの参拝者や関係者より真木大堂を往時隆盛を極めた伝乗寺の姿に復元してほ しいとの熱望が満ち溢れている。


古代公園
 国東半島には六郷満山文化の遺産として宝浅識薦印塔ヽ五輪塔ヽ板碑ヽ石仏等多くの石造文化財が残されている。
これらの文化財は半島全域の寺院や山岳地に散在している為手軽に観賞する事が出来ないので主に市内田染や河内の方々の御協力により本園地に遷仏した。
なかでも国東塔と呼ばれる宝塔はこの半島だけのもので壮重華麗な石造宝塔で他の宝塔と違う持徴として基礎が二重または三重に組立てられ台座には蓮華座がつけられた相輪の先端の宝珠を囲んで火焔が刻まれている。
国東塔造立の目的は仏法興隆、寺院の隆盛等「祈願」する為や[追善供養]あるいは死後の安楽を願う「逆修塔」であり又墓標としても造られた。
宝篋印塔は宝篋印陀羅尼というお経を納めたもので笠の四隅の飾り突起が直立している方形の塔であり、五輪塔は平安後期から「供養塔」「墓標」「舎利塔」としてもちいられた。
板碑は五輪塔形式を簡略化した一種の「卒塔婆」である。又庚申塔、石殿、石祠など六郷満山文化を伝えるこれらの貴重な遺産は土地の人々と先祖の深いきずなであり「くにさき」の風土をこよなく美しいものにしている。


熊野磨崖仏の特色
 昭和三十年二月十五日、国指定史跡に指定され、昭和三十九年五月二十六日、国指定重要文化財に指定された。国東六郷満山の拠点の一つであった胎蔵寺から山道を約三百米程登ると、鬼が一夜で築いたと伝えられる自然石の乱積石段にかかり、この石段を登ると左方の巨岩壁に刻まれた日本一雄大な石仏は大日如来と不動明王であり、これらの石仏群が熊野磨崖仏である。

伝説では養老二年(七一八年)宇佐八幡の化身仁聞菩薩がつくられたと云われているが、この石仏の造立年代推定資料となる「六郷山諸勤行等注進目録」や[華頂要略]等の安貞二年(一二二八年)の頃に『大日石屋』「不動石屋」のことが記されているので、鎌倉初期には大日、不動両像の存在が明確である。また胎蔵寺が記録にあらわれるのは仁安三年(一一六八年)の「六郷山二十八本寺目録」であるので、磨崖仏の造立は藤原末期と推定されている。


燈明石(拝み石) 十二の穴に油を入れて燈明をあげて佛さまを拝んでいた十二支燈明石

菊花の紋章下賜由来 説明書き転記

この本堂は永い間仏道を安置してあった旧本堂で、正面朱塗りの扉には皇室の御紋章があります。
これは今から約七百年前、鎌倉時代に蒙古軍が文永十一年と弘安四年に襲来した時、執権鎌倉幕府は教書を発し、これをうけて豊後守護職が六郷満山の寺院に対し、異国降伏の祈祷を行うよう施行を発しました。
仁門菩薩・八幡大菩薩の霊場であり、六郷満山本山本寺として七堂伽藍と三十六坊の霊場を有し、六郷満山の長講所(学問所)であった馬城山傳乗寺で、国難を救うため長期にわたり、異国降伏の大祈祷が行われました。
その恩賞として弘安八年十月十六日、将軍家を経て朝廷より菊花の御紋章が下賜されたもので、全国でも他に類例をみることができません。今往時を想起したときまことに感無量なるものがあります。

六郷満山

国東半島は、遠い平安のむかしから「六郷満山」と呼ばれる仏教文化圏が形成されたところである。
六郷満山とは、来縄(くなわ)・田染(たしぶ)・伊美(いみ)・国東(くにさき)・安岐(あき)・武蔵(むさし)の六郷に、宇佐神宮の神宮司である弥勒寺の末寺がつぎつぎに建立され、これを総括して呼ぶ場合に使われた名称である。

むかし中国台州の天台山では山頂を禅林寺、中腹を国清寺、麓を修善寺といい、これを天台の三山と呼んだ。六郷満山の組織も、これにならって、宇佐に近い8ヶ寺を「本山」=(学問の場所) 半島中央部の10ヶ寺を「中山」=(修行の場所) 遠い沿岸部の10ヶ寺を「末山」=(民衆と接する場所)といい、この28ヶ寺が本寺となって、その下にもまた多くの末寺が建立されて、宇佐から半島全域をひとつの山に見立てて、規模の大きい天台の三山組織をつくりあげたのである。

これら天台寺院は、山号寺号をもち、例えば眞木大堂のあるところは、馬城山伝乗寺と呼び、本山本寺のひとつとして栄えた跡である。

いまなお、当時の繁栄を偲ぶものとして、九州最古の木造建築である国宝富貴寺をはじめ、多くの寺院、木彫仏、石仏、国東塔などの石造美術品が半島全域にわたって散在している。

真木大堂敷地内説明書き転載


伝乗寺 (太宰官内誌)

【六郷山諸勤行注進目録】に本山分 不動ノ石屋 本尊不動尊五丈石身深山眞明如来ノ自作
【六郷二十八山本寺目録】に序分八箇寺馬城山傳乗寺とあり 又
【六郷山定額院主目録】に馬城山傳乗寺號修善院宗徒三十六坊ともあり、
【國ノ人云】馬城山傳乗寺は田染郷眞木村平地なり田染郷ノ内か本堂のみ残れり入り五間横十間許もあるべし不動威徳明王相殿なり


国東塔
国東塔(くにさきとう)は、大分県国東半島を中心に分布する宝塔の一種とされている。
一般的な宝塔は台座を有さないが、国東塔は基礎と塔身の間に反花または蓮華座、またその双方を有する台座をもつ。

鎌倉時代後期の弘安6年(1283年)の銘が残る岩戸寺の国東塔が在銘最古のものとされている。
以降、南北朝時代、室町時代を経て、江戸時代に至るまで、様々な時代の国東塔が確認されている。
国東塔が造立された目的は、納経、繁栄祈願、墓標、逆修などのためと考えられている。

国東塔の総数は約500基といわれ、9割が国東半島に集中している。

国東塔という名は、京都帝国大学の天沼俊一氏が1912年(明治45年)に富貴寺大堂の修復調査に国東半島を訪れた際、一帯に特異な形式の宝塔が分布していることを見知り、地名に因んで「国東塔」と名づけた。


宝篋印塔(ほうきょういんとう)
墓塔・供養塔などに使われる仏塔の一種である。

中国の呉越王銭弘俶(せん こうしゅく)が延命を願って、諸国に立てた8万4千塔(金塗塔)が原型だとされている。これは、インドのアショーカ王が釈迦の入滅後立てられた8本の塔のうち7本から仏舎利を取り出して、新たに銅で造った8万4千基の小塔に分納したものだといい、日本にも将来されて現在国内に10基ほどある。

石造宝篋印塔は銭弘俶塔を模して中国において初めて作られ、日本では鎌倉初期頃から制作されたと見られ、中期以後に造立が盛んになった。


庚申塔
道教の教えでは、人間の体内には三つの霊が宿っているとされる。それは、魂(コン)、魄(ハク)、三尸(さんし)。
人が死ぬと、魂(コン)は天に昇り、魄(ハク)は地下に入る。

三尸(さんし)は、宿主が死んだ後は自由の身になることから、宿主が死ぬのを待ち望んでいる。
旧暦で60日に一回巡ってくる庚申(かのえさる)の日に、三尸は宿主の体内を抜け出して、天に昇って天帝に宿主の日頃の行状を報告する役目を負っている。 三尸の報告によって天帝は宿主の寿命を決めるとされる。
これをさせないために、庚申の日には、前日から大勢が集まって寝ずにいれば、三尸は体内から出られない。
この行為を3年18回続けた記念に建立したのが庚申塔(正式には庚申待ち供養塔)である。

日本では、奈良時代末頃から貴族を中心に定着した。 枕草子 、 大鏡 などに記述がみられる。
この風習が広まっていく事で、仏教や庶民の信仰が加わり、江戸時代には全国の農村などで庚申信仰が広まったと云われる。

庚申塔には、神道系の猿田彦を彫ったものと仏道系の青面金剛刻像塔がみられる。青面金剛刻像塔の場合、主尊の青面金剛以外に、日月や猿、鶏、邪鬼、等が配されている。
青面金剛は、頭髪の逆立った像、僧形や頭巾姿など種々あり、表情も憤怒の相から慈悲の相まである。
腕の数は、二臂から八臂まであり、 持物は、三叉戟、棒、法輪、羂索、弓矢、剣、杖、蛇など。変わった物としては、「ショケラ」 と呼ばれる上半身裸の女人の頭髪をつかんでぶら下げているものもある。


五輪塔
下部から、方形:地輪(ちりん)、円形:水輪(すいりん)、三角形(笠形、屋根形):火輪(かりん)、半月形:風輪(ふうりん)、宝珠形または団形:空輪(くうりん)の五つの部品によって構成されている。
古代インドにおいて宇宙を構成する要素・元素と考えられた五大を象徴するとされる。

大日経 などの経典に現れる密教思想の影響が強いとされる。それぞれの部位には、下から 地(ア a)、水(ヴァ va)、火(ラ ra)、風(カ ha)、空(キャ kha) の梵字による種子(しゅじ)が刻まれている事もある。


古代文化公園 自然観賞歩道

宝篋印塔


アーチ橋


放水路滝

バイパス道を横切り(トンネルを潜って)、里道をのぼって行く。


焼山溜池