目次へ 熊野磨崖仏/胎蔵寺 sub3-21  2002年9月23日

日本一雄大荘厳な国指定史跡重要文化財


不動明王/PowerShot S30
   【熊野磨崖仏の特色】


昭和二十年二月十五日、国指定史跡に指定され、昭和三十九年五月二十一日、国指定重要文化財に指定された。

国東六郷満山の拠点の一つであった胎蔵寺から山道を約三百米程登ると、鬼が一夜で築いたと伝えられる自然石の乱積石段にかかり、この石段を登ると左方の巨岩壁に刻まれた日本一雄大な石仏は大日如来と不動明王であり、これらの石仏群が熊野磨崖仏である。

伝説では養老二年(七一八年)宇佐八幡の化身仁聞菩薩がつくられたと云われているが、この石仏の造立年代推定資料となる「六郷山諸勤行等注進目録」や「華項要略」等の安貞二年(一二二八年)の項に「大日石屋」「不動石屋」のことが記されているので、鎌倉初期には大日、不動両像の存在が明確である。また、胎蔵寺が記録にあらわれるのは仁安三年(一一六八年)の「六郷山二十八本寺目録」であるので、磨崖仏の造立は藤原末期と推定されている。


熊野磨崖仏管理委員会
   発行パンフレット転記(特色)

【 熊野/磨崖仏 】

大分空港からは安岐-高田線で西国東郡大田村を経由して真木大堂を目指す。
真木大堂から田原山の西を通って山香へ通じる道路を約3km弱走ると胎蔵寺・熊野磨崖仏の看板があり、そこを左に入ると5百メートルで胎蔵寺下の駐車場に到着する。そこから胎蔵寺までは歩いて5分程度。もちろん、胎蔵寺にも駐車場はあるが、ここから歩く方が気持ちがいい。ここは宇佐からの定期バスのバス停でもある。

胎蔵寺の駐車場から始まる参道をのぼる。参道や磨崖仏の維持管理を目的に拝観料の200円を納め、パンフレットをいただく。
ここから神殿へののぼりが始まる。
参拝者への心配りでたくさんの杖が用意されている。もちろん私には不要だが、多くの参拝者にはありがたい心配りであろう。

鬱蒼とした林の中の参道を登り始める。
参道の左手は山に降った雨を集めて流れる水の道が地面を削って溝を形作っている。
日照りが続いた今日は水は殆ど流れていない。

その向こうには立派な杉の林が続く。よく見ると石垣が規則正しく平地をつくり斜面に添って棚状に積み上げている様子が分かる。おそらく見事な棚田の風景がここにあった事が伺い知れる。しがみついて、這い蹲って自然と戦い、あるいは共存した厳しい農民の姿を想像しながらシャッターを切った。


そんな風景の変化を感じながらゆっくりとのぼって行く。
しばらくすると小さな鳥居が見えてきた。
ここからは鬼が一夜で築いたとも云われる100段の石段が、そそり立つ壁のように暗く不気味に鳥居越しに見える。

少し前屈みで鳥居に掛けられたしめ縄をかわしてくぐると自然石が乱積みされた石段が私を待ちかまえていた。

その石の荒々しく重々しい存在感に圧倒され、その一つ一つとの戦いとなった。多くの人々が長い年月をこの石と戦いながら頂上の社を目指した事だろうか。その人々の足が刻んだ石のくぼみを見つめながら私の足がさらにそこをわずかに削る。

下から見上げる石段は私ののぼるルートを見せてくれない。右や左に迷いながら、やや腹の出た60kgを持ち上げて行く。流れる汗もぬぐう余裕すら与え無い程に私の筋力と精神をためし続ける。後に続く家内の事もいつの間にか気遣う余裕が無くなっていた。
無我夢中の石段との戦いは、時間はもちろん、すべての雑念すら入り込む余地を許さなかった。

時折上から下ってくる人々の足を見つけて「こんにちは」と精一杯の声を出してのぼり続ける。
気がつけば左手に明るい空間が開け、垂直にそそり立つ岩壁と真っ青な空が見えた。流れる汗に気づき、私の後に家内が続いていた事に気付き、100段の石段の殆どを上り来たことに気付いて、石ばかり睨み付けて来た自分に苦笑しながら大きく深呼吸した。


乱れた呼吸を整える暇もなく、岩壁を見上げて青く抜けた空の美しさと壮大な不動明王のレリーフに絶句する。

真上から降り注ぐ太陽光線が強いコントラストで顔の凹凸を強調してみせる。真下から見上げて、少し離れて山モミジの枝越しに透かしてみて、やや高いところから斜めにその顔をとらえてみる。

優しく、凛々しく、厳つく、それぞれのアングルから見る顔は様々な表情を楽しませてくれる。

不動明王の右手には大日如来像が見える。右の壁に光が遮られて顔中心で光が暗と明の境界をつくる。
強烈な暗明のつくる表情は大日如来をより鮮烈により大きく見せてくれる。


しばらくの間この空間に浸りその歴史を想像した。誰が、何を目的として、どの様にして刻み付けたのか。
岩壁と木々に囲まれたこの場所に宇宙空間以上の広がりを感じさせる昔人の仕掛けにすべての思考を解き放って泳いだ。
木々の間をすり抜けて岩肌を駆け上るかぜに汗ばんだ体を冷やされて我を取り戻す。

ここから社までは石段を30段ほど。
ゆっくりとのぼり詰めると木漏れ日の中に社が岩と一体の様に岩肌に屋根を食い込ませて建てられている。空を突き刺すが如くそびえ立つ檜の大木が太陽の光線を遮り、僅かな木漏れ日のみがかぜの揺らぎにあわせて荘厳な空間を遊ぶ。
一瞬の光の舞がヤマモミジの枝に射し、見事な色を見せる。

ちらちらと、一瞬たりとも止まらない木漏れ日の揺らぎをカメラのファインダー越しに追いかけた。
やわらかく淡い光の世界に鋭く突き刺す光を今まで経験したどの瞬間よりも美しく感じた。

しばらく境内の石垣の端に座り込んで、社や木々の間を飛び交う木漏れ日の揺らぎや木々に間に見え隠れする大日如来の横顔を眺めていた。


再び下の磨崖仏前の空間に下り、ベンチに腰掛けて不動明王と大日如来を見上げる。
持参したコンビニのおにぎりを頬張りながら、静かな空間と爽やかなかぜと鳥のさえずりと通り行く人々の姿を楽しむ。
30分ほどいただろうか。おなかも気持ちも十分に満たされて石段をくだる事にした。

無我夢中でのぼり来た石段を上から見るとさらに急で険しく見える。慎重にその石のひとつひとつを踏み下りはじめると思いは一転した。
無作為に積み上げられているように思えた石段は、なんと人に優しい気配りで積み重ねられている事を実感する。

私が下るルートが次々と見えてくる。
次に私が踏む石が私の足を迎えに来る。
まるでスポットライトで照らされている様に次々に石段が案内してくれる。

じつに容易くリズミカルに石段をくだる。

鬼が一夜で築いた石段。この石段を積み上げた鬼は優しい心の持ち主だったのかもしれない。

下からのぼり来る人々の頭に向かって激励の「こんにちは」をいう。


あっという間に石段を下りきっていた。 そこから振り返って見上げる石段には喘ぎながらのぼり行く自分の後ろ姿が見える。その後ろ姿に激励の思いを残して私の熊野磨崖仏取材を終えた。

以下、熊野磨崖仏管理委員会発行パンフレット転記


【大日如来像】

全身高さ六・八米、脚部を掘って見ると石畳が敷かれ、地下に脚部が埋没しているのではなく半立像であり、尊名は大日如来と云われているが、宝冠もなく印も結んでいないので薬師如来ではないかとみるむきもあるが、やはり大日如来の古い形ではなかろうか。

頭部の背面に円い光背が刻まれ面相は頬張った四角い顔にとぎすました理知の光と思想の深みが感ぜられ、、森厳そのものであるが、また慈悲の相も感ぜられる。

【不動明王像】

総高約八米、大日如来と同じく半立像で下部はあまり人工を加えていない。
右手に剣を持ち、巨大且つ雄壮な不動明王であり、左側の弁髪はねじれて胸の辺まで垂れ、両眼球は突出し鼻は広く牙をもって唇をかんでいるが、一般の不動らしい忿怒相はなく、かえって人間味ある慈悲の相をそなえており、やさしい不動様である。

【種子曼茶羅】しゅじまんだら

円形頭光の上方に三面の種子曼茶羅が隠刻されており、中央を理趣教曼茶羅右方を胎蔵界、左方を金剛界曼茶羅と云われて修験道霊場であったことが証明される。

【脇童子】

不動明王の両脇に矜羯羅童子(こんがらどうじ)、制咤迦童子(せいたかどうじ)が刻まれてあるが剥離崩壊がひどく存在が認められるのみである。

【神像】

不動明王左脇侍像の外側に高さ一・五米ほどの方形の龕が二つ刻まれており巾子冠を戴き袍を付ける男神像の存在が認められる。この地が熊野神社境内であることを思えば、この二躯は家津御子(ケツミコ)、速玉(ハヤタマ)の二神と想像され右方の崩れた処にも夫須美神が刻まれていたものではなかろうか。

【熊野権現の祭典】

旧正月二十八日、九日と旧六月一日が例祭であり、六月の祭は紀州熊野からお迎えした日で、お供えが問にあわなくて、いそいで小麦粉をフルイにかけずそのまま団子にして供えたので、今でも同じように造られた団子を供え、かわりに神前の団子と取りかえて帰っていただくと、子どもは元気で育ち一家は無病息災、商売は栄えるので多くの参拝者がある。

鬼の築いた石段

紀州熊野から田染にお移りになった権現さまは霊験あらたかで、近郷の人々はお参りするようになってから家は栄え、健康になりよく肥えていた。その時、何処からか一匹の鬼がやって来て住みついた。鬼はこのよく肥えた人間の肉が食べたくてしかたないが権現さまが恐しくてできなかった。然しどうしても食べたくなってある日、権現さまにお願いしたら、「日が暮れてから翌朝鶏が鳴くまでの間に下の鳥居の処から神殿の前まで百段の石段を造れ、そしたらお前の願いを許してやる。然しできなかったらお前を食い殺すぞ」と云われた。権現さまは一夜で築くことはできまいと思って無理難題を申しつけられたのだが鬼は人間が食べたい一心で西叡山に夕日が落ちて暗くなると山から石を探して運び石段を築きはじめた。真夜中頃になると神殿の近くで鬼が石を運んで築く音が聞えるので権現さまは不審に思い神殿の扉を開いて石段を数えてみるともう九十九段を築いて、下の方から鬼が最後の百段目の石をかついで登って来る。権現さまはこれは大変、かわいい里の人間が食われてしまう、何んとかしなければとお考えになり声高らかに、コケコウー口と鶏の声をまねられたら、これを聞いた鬼はあわてて「夜明けの鶏が鳴いた、もう夜明けか、わしはこのままでは権現さまに食われてしまう、逃げよう」と最後の石をかついだまま夢中で山の中を走り、一里半(六キロ)ほど走ってやっと平地に出たが息がきれて苦しいので、
かついだ石を放ったら石が立ったまま倒れないのでそこを立石(速見郡山香町)と呼ぶようになった。
鬼はそのまま倒れて息が絶えた。これを聞いた里人たちはこれで安心して日暮しが出来る。
これも権現さまのおかげと、岩に彫んだ大日さまのお加護であると朝夕感謝するようになった。


【 胎蔵寺/天台宗 】

訪れたこの日は穏やかな秋晴れに白い雲が浮かび、爽やかなかぜが流れていた。