目次へ 三浦梅園学びの道を歩く
sub3-85 2009年12月12日 文字は、の等巾フォント(MSゴシック)でご覧ください。

歩いたルートです。2010年1月7日にGPSロガーでルートを記録しました。
GPSロガーでの計測距離では、約18.6kmでした。ただし、梅園資料館から杵築藩校までです。GPSロガーでは、アップダウンの実歩行距離では無く地球表面の移動距離ですから、もう少し長い距離を歩いたでしょう。


三浦梅園が16歳で杵築藩の綾部絅斎(あやべけいさい)先生の元まで安岐町富永から16kmの道のりを歩いて通ったとある。このたび、梅園少年が通った道が確認され、多くのボランティアの手によって歩ける道となった。今日は、その道を歩くウォーキングが開催されたので参加した。

三浦梅園は、言わずと知れた哲学者である。
さて、梅園さんは江戸時代中期(1723―1789年)に存在した人。16歳と言えば、1739年である。この時代には、今の様な舗装道路どころか、山中を辿る細い山道しかなかった。そんな道を片道16km歩いて行き、藩校で勉学し、来た道を又戻るを何度繰り返したのであろうか。
今日は、その片道だけを体験する。

先ずは、梅園の里で受付を済ませ、準備体操をしっかりして出発。時間は9時9分。参加者は皆私より大分先輩の62名の大人数である。

歩いたコースを辿ろう。
スタートは、三浦梅園旧宅の直ぐ上に位置する「梅園の里」。

梅園旧宅のある、安岐町富清は両子川(ふたごがわ)沿いの谷にある。ここから、西へ一山越え、朝来野川(あさくのがわ)の流れる朝来の谷へ出る。富清からの道は、鬱蒼と茂る杉林の中を40分程歩くと朝来の岩尾地区へ出る。岩尾地区では、農家の庭先でミカンのお接待を受けた。乾いた喉に美味しかった。

民家の裏や軒先に残る里道を辿りながら西白寺の前を通り、弁分(べんぶ)の八坂神社を抜け、朝来野川沿いに下る。(西白寺ではトイレ休憩)

更に、八坂神社でひと休みしている私達を見つけて、ご近所のお婆さんがまたもやミカンを持ってきてくれた。小さいが甘い早生ミカンをポケットに5つ程いただいた。16歳の梅園少年はこんなお接待にあずかっただろうか。

岩尾地区でミカンのお接待 9:50 八坂神社前 10:25

八坂神社から釜ケ迫への道


朝来野川を渡る 10:58
八坂神社から釜ケ迫(かまがさこ)の国東塔を経由して、朝来川沿いの道へ出る。

朝来野川と安岐川の合流する地点のおおよそ7百メートル手前で、川底の石を飛んで朝来川を渡り、対岸の大橋地区へ近道をした。川の水が多いと渡れない。16歳の梅園青年はここを渡ったのだろうか。滑りやすい川石に悪戦苦闘しながら何とか全員が渡りきった。澄み切った清らかな水が今も流れている。

7百メートルほど歩くと、川幅の広い安岐川があります。今は立派な鉄筋入りのコンクリートの橋が架かっていますが、当時は木の橋でも架かっていたのか、それとも袴をたくし上げて渡ったのか。


密乗院への坂 11:10
安岐川に架かる橋を渡って、山浦密乗院(みっちょういん)へ続く急な上り坂を上って、絶景の棚田風景が広がるビューポイントへ到着。・・と思いきや、行き過ぎた様だ。途中、右へ上る道を見過ごしてしまったのか。小林会長痛恨のミスかな?

少し戻って、落ち葉の積もった上り坂をハアハアと息を急きながら進む。冬枯れた棚田の景色を右手に見ながら九十九折りの道を一歩一歩上ると、ライ麦の青い畑が広がっていた。牧草用に植えているようだ。

汗ばんだ体を心地よい風で冷やしながら、、ちょっと遅れた人達を待った。場所は、橋上(はじかみ)辺りだろう。

ながくてきつい坂を登り切ってちょっとひと休み。梅園青年もここらでひと休みしたかな。


密乗院から橋上への道 11:30

橋上の牧草地 11:46

さて、お昼前になった。お弁当が待つ馬渡りの観清寺を目指してもう一がんばりが求められる。

簗瀬から橋上へ抜ける道路を横切って、馬渡りへと石ゴロの道を上る。途中、放牧されている牛の糞があちこちにあって踏まない様に気をつかった。
梅園少年が歩いた頃は、牛の糞など無かっただろう。

先頭行く皆さんの「糞があるよ〜」の声で踏まずに歩く事が出来た。

それにしても「腹減った〜・・・」でも、牛の糞は饅頭には見えなかった。


簗瀬から橋上への道を横切る 11:56

馬渡集落に到着。観清寺まであと15分。


観清寺着 12:15
12時少し過ぎた頃お昼休憩地点の観清寺へ到着した。
一生懸命歩いたので、お弁当が待ち遠しかった。梅園の里が作ったお弁当を美味しくいただきました。また、馬渡の阿部さんが差し入れてくれた石垣餅とミカンをいただきました。これは、途中のおやつにと、リュックに入れた。

観清寺では、梅園歴史資料館の館長さんに梅園さんの話をしていただいた。

さて、ここで全員で記念撮影をして、黒岩往還へ向かいます。時間は1時6分。


梅園のお話をする資料館の館長さん

黒岩往還の入り口 13:07

黒岩往還

観清寺から150mほど下ると、畑の間から右へ折れる道がありました。
歩いてみると、あちこちに木の切り株があって、この道が藪を切り開いて付けた道である事は一目瞭然である。

話によれば、大勢のボランティアの皆さんが梅園さんの学びの道を今の時代に再現しようと汗を流した道だそうだ。それにしても大変だったろう。歩くのも結構大変である。

左手の山の頂上付近には新しい道が付けられているが、梅園さんの時代には、この道しか無かった様だ。

少々笑い始めた膝を必至に踏ん張りながら石ころと切り株に負けない様に黒岩往還を下る。


三光坊 13:51
やがて、ミカン畑の広がる地区へと出た。さて、ここは、杵築市の三光坊(みこぼう)だろうか。

オレンジ色の実が花の様な華やかの景色の中を気持ちよくしばらく歩く。

少し霧雨が降り始めるが、ぬれる程ではない。少々足の強ばりが増してきたがまずまずの調子で歩いている。三光坊のミカン畑の景色は、梅園少年が歩いた頃はどんな景色だっただろうか。

そんな事を思いながらミカン畑の中をあるいて行くと広いお茶の畑があった。濃い緑色のかまぼこ状のあちこちに白いお茶の花が美しい。お茶はサザンカと同じ種類。サザンカの花もあちこちで見かけた。


 五田 14:15
ここからは緩い下り坂に背中を押されながら快適に歩く。お茶とミカン畑を過ぎると五田(ごた)地区へ出る。今の地名は鴨川かな?ここの菅尾公民館に石に刻まれた道しるべがある。右ふるいち、左ふ多ご至と刻まれている。左ふ多ごはふたごだろう。
もう少し下にあった様だが、この公民館のかどへ移されたらしい。

梅園少年はこの道しるべをあてに歩いたのだろう。

ふと目をやると大分空港道路の杵築インターチェンジが見えていた。


あぜ道を高山川へ向かう 14:29

若宮八幡社前 14:40
道しるべを後に下る事直ぐで高山川に出る。目の前の小高い森の中を上ると、若宮八幡宮前にたどり着く。鳥居前の広場には杵築中学校跡とあった。

宮司を抜けて、杵築の高台へと上って行く。杵築市古野を南へ抜けて、突き当たりを左折し、梅園青年が目指した杵築藩の藩校を目指す。

この道は真っ直ぐだが、高さ方向に波打ち不思議な風情を作りだしている。皆無言で歩く。すでに到着予定の3時を過ぎている。我が二本の足はすでに棒。3時10分無事到着した。
私達はこれでゴールだが、梅園青年は、ここで勉強して、再び安岐町の富清まで戻ったと聞く。さて、事実だろうか。

私達は、ここから杵築城まで歩き、バスで出発地へ戻った。


緩やかに波打つ道が面白い

藩校に到着 15:06