目次へ 国見町ウォーク
sub3-84 2009年11月28日 文字は、中の等巾フォント(MSゴシック)でご覧ください。

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国見町を歩く、「み仏の里国東ウォーキング」に参加した。Aコースの17kmとBコースの8kmが設定されていたが、根性の少し乏しい私は、当然ながら8kmのBコースとした。

コースを紹介しましょう。
Aコースは、竹田津改善センターを出発し、鬼神台(金比古社)→大光寺庚申塔→井上庚申塔→清浄光寺・許波多社→小田原庚申塔→岡恵比須様→(山越え)→大高島(昼食)→馬ノ背海岸→(山越え)→浦手赤崎社恵比寿様・庚申塔→竹田津港→武多都社(鳥居・肥後垣)→改善センター(約6時間コース)

 
Bコースは、竹田津改善センターを出発し、武多都社(鳥居)→大光寺庚申塔→鬼籠一字三礼社→鳥獣供養塔→鬼神台(金比古社)→普門寺庚申塔→前後組庚申塔→(山越え櫛海へ)→万福寺(国東塔)・橋供養塔・庚申塔→櫛海公民館(昼食)→山神社(狛犬)→みいが岩→旧R213号線→改善センター(ゆったり5時間コース)

どちらも9時出発でした。


8時半、集合場所へ到着すると、すでに大勢の参加者が気負った格好で集まっていました。

早速受付を済ませて、ビーの会の皆さんのサービスで珍しい黒米の甘酒をご馳走になりました。とても爽やかな甘みの美味しい甘酒でした。お陰で、元気百倍となりました。

会場を見渡せば、どこかでお会いした面々。安岐ウォーキングの小林会長他、梅園の里が主催するウォーキングでお会いする方々も大勢参加のようです。

今日の主催者代表の山本さんの開会挨拶、野田国東市長の挨拶、続いて準備体操をして、それぞれのコースに分かれて出発しました。
 
 

BコースMAP
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ちょっと残念なお話
会場でお弁当の注文を受けていました。なんとタコ飯の様・・・これを知っていれば、絶対これにしたのに・・悔しい! 奥方は、朝早くに起きておにぎり弁当を作りましたが、これを知っていれば、もう少し寝れたのに。・・

もう一つ。国東郵便局が企画した記念切手。千2百円で販売していたので買いました。当然、料金前納を証明する証紙と理解して購入したが、帰って良く見れば、80円切手が10枚。えっ、400円は余白とビニール袋代金。はっきり言って違法商売ではと憤慨するが、後の祭り。これって、許される商売?。この件は、ウォーキング主催者側とは関係ない話です。


武多都社
さて、集合場所から歩いて数分の川手前に位置する武多都社(たけたつしゃ)。昔は、この神社手前まで海岸だったとの説明。
この神社は、熊野権現を祀るそうで、細川公が強く信心し、社の石垣を寄進したと伝えられる。これを肥後垣と称しているそうです。どれだか見損ないました。

細川公(細川忠利:肥後熊本藩54万石を領し、幕末まで(237年)統治)が、江戸へ上る際、陸路を肥後豊後の鶴崎、鶴崎から、海路でこの社の沖を通る。その折、船の帆を下げて敬意を表したと云われている。

鳥居
三浦梅園の書が刻まれている。これも画像無し。

本日は、武多都社のお祭りらしく、旗が立てられていた。
現在、ここの地名は竹田津と書くが、武多津の変化したものであろう。







大光寺
ここの庚申塔見物Bコースの中に含まれていたが、今日は、晋山(しんざん)法要の稚児行列があり、それを見る事が出来なかった。

晋山法要とは、堯道宗隆(ぎょうどうそうりゅう)和尚が同寺の住職になることを祝う仏教儀式。総代など地域住民ら300人ほどが集まって賑やかに行われたもよう。

新聞によれば、稚児行列には地元の子どもたち約50人が参加。稚児化粧をし、着飾った姿で地域を練り歩いた。・・とあった。

ひょっとしたら、稚児行列が見られるかとも期待したが、見る事は出来なかった。



鬼籠一字三礼石
大光寺の手前を左折して、やや急な坂道を上ると、程なく左手の上に目的の一字三礼石(供養塔)がある。

一字三礼石とは、小さい平たい石に法華経の凡字を刻んで、中に入れた石塔であるとの事。

一つの石に凡字一字を刻み、三回礼をして、中に納めたと云い、すべての法華経を納めるのに3年の歳月を有したそうである。
石台の下の方に、石を入れたと見られる隙間があった。

一字三礼石は町内に二つしか無い珍しいものである。一般的な一字一石供養塔は沢山あるとの事。

この一字三礼石の後ろは永福寺の墓地になっている。永福寺は2008年に解体したそうだ。



鳥畜供養塔
さて、今度は坂をしばらく下って、隣の谷へ出る。峠付近で地名が国見町竹田津から国見町鬼籠(きこ)へと変わる。

平坦な道を少し歩くと、左手の高台に鳥畜供養塔がある。

この類の供養塔は町内に3カ所程あるそうで、家畜の命を大切に供養したものと考えられている。

赤根地区には、猛禽供養塔や蚕の供養塔があるとの説明。



鬼神台(金比古社)
鳥畜供養塔から次の道を右折し、民家の間を入って20mくらい。小さな鳥居のある社がある。鳥居より先に庚申塔と石の祠が見える。鳥居の額束には、「鍛名命」と刻んである。

小さな鳥居を潜ると、


刀匠、紀新太夫行平の鍛冶場跡と云われている。地区の紀一族が年に一度祭祠を執り行っている。紀太夫行平〜1144年(天良う養元年)相模の国の生まれと云われている。成人して修験者となり英彦山に入山、刀匠源(げん)正房(しょうぼう)定秀(さだひで)(紀太夫)の後継者として紀新太夫と名乗る。平氏滅亡により関東は下野(しもづけ)の国利根荘へ流刑されるが頼朝死亡により九州へ下向。国東伊美郷住し、後に大分の高田に居を定める。豊後刀鍛冶の祖と云われ肥後細川家の永青文庫(東京目白)所有の太刀は国宝に指定されている。

紀新太夫行平は74歳で亡くなったが、この地を拠点に香々地夷谷、豊後高田、大分市高田と点々とし、刀匠の腕を磨いたとされる。

国東半島の伊美郷に来た理由は、松炭を作る松がの木が豊富にあった事、良質な砂鉄が採れた事によるものだろうと推測されている。現在でも、刀鍛冶には松炭が不可欠と聞く。

松炭を作るために松の木を伐採したが、その中に大きな白檀の木があった。その木は、幹周り一丈4尺、枝下5間の大樹であったが、枯れてしまった。その大樹を忍んで村人が社の横に白檀の木を植えたが、大樹にならず枯れてしまい、今は枯れた株が残るのみとなった。

刀匠紀新太夫行平の血を継ぐ紀家が以前は10軒程あったが、現在は数軒となっているとの事。

刀匠紀新太夫行平を讃えて、神と崇め、小さな社が建てられているが、昔は、この場所にゴザを敷いて神楽を奉納したとも伝えられている。



庚申塔
大きな庚申塔がある。庚申信仰は一時盛んであったようだが、今はその行事を続けているところは少ないそうだが、この地域では今も年に数回と回数は減ったが続けられていると聞く。
庚申の説明・・・・
普門寺庚申塔

前後組庚申塔

万福寺(国東塔)

橋供養塔・庚申塔

櫛海公民館(昼食)

山神社(狛犬)

みいが岩

旧R213号線

改善センタ