目次へ 諸田山神社御田植祭
sub3-83   2009年03月20日        文字は、中の等巾フォント(MSゴシック)でご覧ください。



諸田山神社御田植祭のご案内(見物者に配布された祭りの説明書)

 昭和三十六年二月十四日指定 大分県選択無形民俗資料
 平成十三年四月三日大分県指定無形民俗文化財

 諸田山神社の神前で行う田植えの神事で、文政四年(一八二一年)巳四月、諸田村七兵衛と末弘七郎右衛門が東国東郡奈狩江村(現在の杵築市奈多)奈多八幡神社の御田植祭の方法を伝えて以来、百八十年に渡り毎年行われてきた。

 この祭事の主旨は、年々の農作物の豊饒を祈願するとともに、氏子の繁栄を祈ることである。祭式は当時の農業形態そのままを伝承しており、奉仕者の諸役の言葉、服装などが古い形のまま伝承されてきているため、意味不明の言葉も多い。

 当日は、祈年祭祭典が終了した後、神社境内のにわか作りの神田で御田植神事を行う。以前は旧正月十七日に行われていたが十五日に改め、さらに平成9年からは「春分の日」に行っている。

 御田植神事の斎場は、神社前の庭の四隅に笹竹を立て、しめ縄を張って神田に見立てる。神田の一隅に的と弓が供えつけられる。的の上部にはシデ、カミシバが挿されており、裏面に「鬼」の逆文字が書かれてある。この的の前には祭壇が設けられ、祭壇には米、餅などの神饌とともに種籾、的を射る矢が供えられる。この神田に鍬、かま、かご等を持った者や早乙女に扮した少年が勢ぞろいして、黒牛も登場すると、笛、太鼓に合わせて神事が始まる。


式次第

 一、田神主による産土神(氏神)への豊饒祈願
 二、弓射儀礼
 三、畦塗り
 四、代掻き
 五、柄振り
 六、種蒔き
 七、苗運び
 八、御田植え
 九、ウナリの弁当持参、御子産
奉仕者二十二名
 諸役

  田神主一名
  作庄屋一名
  鍬取り二名
  馬鍬駄(牛使い役)一名、牛の役二名
  柄振押し二名
  種蒔き一名
  投苗一名
  立歌人一名
  早乙女五名-
  ウナリ 一名
  里楽(ハヤシ)笛二名、太鼓一名、鐘一名


以下、黒文字は見物客に配布された説明書きの転記です。


一、田神主による産土神(氏神)への豊饒祈願

 神官が祝詞を奏上してから弓を取り、的や神庭に矢を射る。この後、区長がサカキを献上して的に矢を射る。次に、田神主(服装は狩衣に烏帽子で、手に御幣を持つ)が神田の田植えを産土神(氏神)に奉上し、諸々の神への祈念、厄払い、五穀豊饒を祈願する。

 その間諸役は、大きなキセルにタバコを詰めていっぷくが始まる。大げさな仕草でキセルを皆で回し飲み、観客席の来賓にもいっぷくを進める。
ござで作った煙草入れがなかなか・・・

 田神主の神前での神謡
「神山の、神山の、神の御社伏し拝み、早乙女の袖をつらね、笠のはをならべつつ、水も豊かに水口を祭納る神の御田植」田神主は神謡を奉謡した後、的に矢を射る。
 続いて、作庄屋(御田植の宰領役=紋付、羽織袴、帯刀)、鍬取り、駄使い、柄振押し、種蒔き投苗、立歌人(たちうど)の順におもしろおかしく矢を射っていく。

二、弓射儀礼
弓射儀礼が終わると田作りが始ま
る。鍬取り一名、畦塗り一名(長袖の白衣に白袴赤襷がけで頭に冠、白の向こう鉢巻き、わらじを履き、赤、白粉、墨で化粧をしている)が神田の畦塗り、その他の整地をするために神前へ進み出て次の言葉を述べる。

三、畦塗り

鍬取りの言葉
「かように候者は、当所の者にて候。今日最上吉日を以て、神の御田を植うずるにて候。それがし鍬取りの役なれば、御田をさし急ぎ候。」と唱えて、おもしろい身ぶりで神田を一周し、神前に戻る、続けて、「急げば程なく神田に着き(鍬の柄の上に片手で頬をつけ、こっけいな所作で神田を眺めて)ほほう、平々としてよき御神田かな。おとぼ一しや、みやぼうしや、鋤、馬駄の稽古もよく上りたるものじゃよな。それがし鍬取りの役なれば、水加減をならそうずるにて候。」鍬取りがこっけいな所作を交えて畦塗り、整地を終わると牛が登場してくる。

四、代掻き

 馬鍬駄(もうがた)(牛使い役=服装は鍬取りと同じ)一名が、黒牛(張り子で中に二名)を追って神田を代掻き、整地をする。

牛が暴れまわり、なかなか代が掻けない。馬鍬駄は困り果てるが、いろいろとこっけいな所作を含め、やっとのことで代が掻ける。

 牛に引かせる道具を“モーガ”と言っていましたが、本当は何と言うのでしょう。我が家にもありました。もちろん牛に引かせて、鋤で掘り返した荒くれの土を細かく砕くための道具です。

五、柄振り

続いて、柄振押しが二名で地ならしをする。地ならしが終わると早乙女等に呼びかける。

柄振押しの言葉
「いかに早乙女、早苗を配り、神主殿のおいでを待とうずるにて候。」

柄振りとは・・
 田んぼの泥を平らにする作業を言う。板に長い柄を付けた野道具で、田植えがやり易いように田んぼ全体を均す。結構な重労働です。

六、種蒔き

続いて種蒔き一名が籾俵を重そうに担いで登場する。重くて思うように担げず、転倒してしまう。

鍬取り、柄振り押しの手助けもあり、笑わせるような所作多く交え、ようやく祭壇に供えてあった籾種を下ろし神田に蒔いていく。

時折、見物人の頭上高く籾種をばらまく。

七、苗運び

 続いて、投約一名が稲苗を運ぶ。稲苗のカゴが重いのか、足元がふらつき、見物人の中に倒れ込む。

仲間が手助けに来て、代わりにカゴを担ぐがまたも転倒するなどのこっけいな所作を繰り返す。




 相当なオーバーアクションで大いに観客を楽しませた。天秤かごの中身はセキショウ(国東半島ではメツッパリなんていいますね。)

八、御田植え

 投苗が終了すると、奉仕者全員が神田に勢揃いして田植えが始まる。

立歌人一名(音頭取りの役=羽織、袴で太鼓を持つ)の太鼓に合わせて田植え歌が歌われると、早乙女五名(十歳前後の男子の女装。紅、白粉をつけ、赤襷、花笠を着用)が田植えの所作を行う。

この時の田植え歌は、立歌人と諸役の掛け合いの形式で構成されている。

 立歌人の言葉
「そもそも神主殿には、よき方に向かい、御幣をさしあげ、声をあげ。」









 田植歌(○立歌人、△諸役)
植えい、植えい、早乙女、笠買うて着しょうよ。
笠さえた〜もるなら、田をば、なんぼも、植ようよ。
おー、いかに早乙女、化粧紅がほうしゅいか。
化粧紅た〜もるなら、田をば、なんぼも、植ようよ。
化粧紅とんりたと〜で、なにしょうに、みいめあり。
面にくの、男の子の、いうたる事に、腹立つ。
おー、いかに早乙女、苗代の素水みいで、水や鏡をみたかよ。
苗代の素水みいで、水や鏡は見習え。
苗代の素水みいで、水や鏡を見たりとも、顔は汚れた。
顔は汚れたりとも、思う殿御は持ちたよ。
お一、いかに早乙女、富岡山に白玉椿の花の咲いたをみたかよ。
げに美と見たれど、黄金の花も咲いたぞよ。
おう、目出度し、目出度し、目出度い御代に千町や万町の御田植、うれいしや、うれいしや、朋輩衆。

 かわいい小学生の男の子達である。
きれいに化粧された表情は緊張気味だったが、出番に待ちくたびれて少々眠そうだった。

いざ出番に再び緊張した面々は、より女性らしい早乙女を見事に演じきった。

九、ウナリの弁当持参、御子産

 田植えの終わった頃、「ウナリ」(男の女装、頭上におひつを乗せる)が田植えの奉仕者達へ「コビル」(弁当)を運んで神田へ登場する。

神前に到着し、背中にさしていあったしゃもじを取り出そうとすると、急に産気づき苦しむ。

奉仕者の一人が手助けをするなどして出産する。
この時男子なら白布、女子なら赤布で作った人形を使用する。

出産の後、神前にワラをまき、水をかける。
 頭の上にお櫃を載せた大柄の女形が登場すると白袴の諸役が道化て帯に挿したしゃもじを取って隠したりと見物客を笑わせる。
産気づく仕草のウナリの背中を擦ったり、産婆を探したりと・・・
ウナリは、田んぼの畦で無事赤い人形の赤ちゃんを産み落とした。


 以上が祭事の概要である。この他にハヤシ(里楽)として、太鼓一名、笛二名、鐘一名の楽師がつく。
楽譜などは無く、直接的な訓練により伝承されてきた。

 諸田山神社  東国東郡安岐町大字明治字尾園鎮座

際神 大山祇命、淤膝山津見命、興山津見命、原山津見命、水象女尊、事代主神、菅原神創立 不詳であ
   るが口碑によると、往古諸田飛騨守が社地をこの地(徳林)に選定し、社殿を造営し「山王宮」と   称し、諸田一村の産土神と仰ぎ奉る伝えられる。明治五年村社に列せられ「山神社」と称す。

祭日  御田植え際   三月春分の日
    神幸祭     六月十二日(旧暦)の例祭に神幸所まで御神幸があり、神輿の出御がある。
    霜月祭     十一月六日(旧暦)

奉献物 棟板、領主松平筑後守源臣親栄、天下泰平国家安穏祈願
    享保八年(一七二三)燈籠
    享保十年(一七二五)燈籠
    明和五年(一七八五)鳥居石高一丈六尺三寸(帆足萬里の書銘による)
    享和二年(一八〇二)燈籠
    文化六年(一八〇九)手水鉢
    弘化二年(一八四五)燈籠
宝物  武具四組、楽打ちに使用されていたと伝えられている太鼓、鐘、獅子頭二、鐘三十。
神幸所 享保三年(一七一八)鳥居石高一丈六寸
    安永五年(一七七六)燈籠
    寛政元年(一七八九)燈籠

『諸田』という地名の由来
 日本書紀の中に、「神があもる」(天降る)という記述があり、この「もる」という動詞の名詞形が「もろ」という。「もろ」とは降下、落下という意味で、神が御降りになる、或は降臨して宿るという意味になろう。
 諸田という名称は、神が御降りになる聖なる田が、かって集落内に存在し、その田の中で祭祀が行われていたので「諸田」と呼ばれていた。やがてその諸田という呼び名が、集落全体を指すようになり諸田という地名が生まれた。


 楽しい一日でした。朝方の雨も程なく上がり、梅園の里から諸田山神社まで約8kmを歩いた甲斐がありました。この祭りのことは以前から聞き及んでいましたが、見るのは今回がはじめてでした。村人の熱の入った演技とその中に込められた伝統の継承と豊作祈願、子孫繁栄、国家安泰・・国東半島を代表する無形文化財です。