大帯八幡社(おおたらし八幡社)
大帯の名のいわれは大帯姫(おおたらしひめ:神功皇后)からきたものと思われる。
また八幡は八幡神からきたもので、大帯姫の子の応神天皇である。
筑後国宇佐に鎮座していた八幡神が豊後国姫島、安芸国栃原(とちはら:現在の広島県)を経て、大宝
三年(七〇三)遷座(せんざ)したのに始まると伝えられている。
本殿が現在の地に建てられた時期は不明であるが、寛永十六年(一六三九)に大帯八幡社の最初の神官(江原河内守森猶:かわちかみもりなお)が就任していることから、この時期に既に本社はあったのでは
ないかと思料される。
宇佐神宮の現本殿(八幡造り)は安政二年〜文久一年(一八五五〜一八六一)にかけて造営された。本殿は後部を内院、前部を外院といい、切り妻造りの屋根をのせ、中間の一間は床を外院と続けているが、屋根は造り合わせとなっていて、ここに金色の樋をかけて、両端には堅樋を設け、これをウツボ柱と呼んでいる。
大帯八幡社の造りはこの宇佐神宮現本殿(八幡造り)と同じであることから、おそらくその後の建造であると思料される。ただ、呉の亀山八幡社建造が、棟木札に正和元年(一三一二)とあることから、それ以前のものとも考えられるので、相当古くから大帯八幡社そのものはあったものと思われる。 |
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本殿は元治元年(一八六四)九月に大火で焼失し、神社にあった古文書もすべて焼失した。
長応元年(一八六五)二月に建て替え、大正二年(一九一三」)に屋根を葺き替え、昭和三十九年(一九六四)八月に桧皮葺朱塗りに修復した。
昭和六十三年(一九八八)九月、本殿を銅板に張り替え(桧皮葺張りの宮大工と費用の関係)回廊、屋根替え、金比羅社拝殿等の工事を行った。なお、本殿は五十年ごとに建て替えている。八幡造りの神社は全国に六社知られており、そのうちの一つが大帯八幡社で、神社建築様式を伝える貴重な建築物である。
御祭神は次の三神である。
帯中日子命(たらしなかつひこのみこと):仲哀天皇(ちゅうあいてんのう)
息長帯姫命(おきなかたらしひめのみこと):神功皇后(じんぐうこうごう)
品蛇和気命(ほんだわけのみこと):応神天皇(おうじんてんのう)
本社は宇佐八幡宮の御分霊である。
江戸時代には杵築藩主松平家の安産祈願所でもあった。現在では産土の神として氏子の篤い信仰を受けている。
境内には元宮をはじめ、十七の摂社、末社がある。
木野村孝一著 「姫島の歴史」 〜ロマンあふれる島への誘い〜 ・・・より |