matama-a-04 真玉町の文化財
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福真磨崖仏・四王権現

昔は、椿堂手前にトンネルがあったが、今は堀切となっている。福真磨崖仏・四王権現はこの堀切手前右手の川向こうにある。

太宰管内志の無動寺に記載されている、左ノ方向処に観音堂あり・・が四王権現福真磨崖仏ではなかろうか。(昔の無動寺は、ここの下流、現身濯神社に所在していた。)

田んぼの畦道を50m程進み、小さなコンクリートの橋を渡ると、小さな鳥居がある。鳥居の袂には「四王のくぐり鳥居」と書かれている。

腰を少し屈めて鳥居をくぐり、20m程で右手の岩に磨崖の佛が彫られている。それを守るように、立派な石の覆屋根がかけられている。

唐破風付石造覆屋 安政四年(1857年)法橋安藤国恒・鴛海重光作


六観音座像 不動明王 胎蔵界曼荼羅

毘沙門天 六地蔵 金剛界五仏座像 六観音座像

六観音座像
聖(しょう)観音、十一面観音、如意輪観音、馬頭観音、准胝観音、千手観音
六地蔵
一例として、檀陀地蔵、宝珠地蔵、宝印地蔵、持地地蔵、除蓋障地蔵、日光地蔵

金剛界五仏座像
金剛界五仏とは、中央の大日如来と不空成就仏 阿閃如来 宝生如来 阿弥陀如来

毘沙門天
四天王の一人で多聞天の別名。
財宝や福徳を与える神様。

四王権現

福真磨崖仏前の石段を登り上がると岩壁の窪みを利用した堂宇がある。この石段が結構長い。

四王権現とは、四天王権現では?もし、四天王なら、・持国天・増長天・広目天・多聞天が祀られている筈だが?祀られているのは、不動明王(文化五年:1810年)、薬師如来坐像と記されている。

さて、無動寺との関係は、梅原治夫著「国東半島の文化と民族」の中で以下のように書かれている。

六郷山諸勤行注進目録に、「中山分|黒土石屋本尊馬頭観音仙室(中略)|四王石屋本尊四天王仙室・・・云云」と、また六郷二十八山本末目録に「正宗分中山十箇寺黒土山本松房云云」とも記され、中山本寺の本松房はこの附近にあったものではないだろうか。現在本松房の寺跡については詳でないが、引用文に見る四王権岩屋とは、磨崖仏から石段を登った洞窟の権現社のことではないかと想像される。

六郷山定額院主目録
に「小岩屋山無動寺院主本松院(坊?)徒呂十二房也」とある。これから考察されることは、すでに早くから本松坊は独立からはなれて無動寺院坊の一つになったのではなかっただろうか。しかも元来無動寺と馬頭観音は無関係であったものが、太宰管内誌の「國人云」には「本松院は真玉庄黒土村にありて今は小庵となれりといふ・・・」とあるが、同じ太宰管内誌の無動寺の項「國人云」に「前に小流あり向ノ方に数多の岩峰あり左ノ方高所に観音堂あり入一間横一間半本尊は馬頭観音なり・・・」と。

この馬頭観音は現在無動寺の境内に祀られている。
このことは早く本松坊が衰亡したため、無動寺に所属したことを物語っているのではないか。

また、安貞二年(1228)注進状には「黒土岩屋多聞寺」のことがあるから、これは本松坊が多門寺と改名したとも考えられる。

いずれにしてもこの四王権現社は本松坊の奥の院であったことは、間違いない事実であろう。



四王権現福真堂内部の祭壇

福真堂右横の石殿と不動明王