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2010mineiri-s

岩戸寺から・・・
石立山岩戸寺→治地山大聖寺→大聖寺五輪塔群→久保山長慶寺→三十仏岩屋(遙拝)→峨眉山文珠仙寺→仙ノ不動岩→奥の院→清滝観音→龍下山成佛寺(昼食)

→大嶽山神宮寺→参社山行入寺→桜八幡社・興導寺(遙拝)→医王山丸小野寺(宿泊) 

文殊仙寺

山口池から2km程緩やかな登り道を歩き、仁王さんの背中に続く石段を上れば峨眉山文殊仙寺。

文殊山(617m)の東北側の中腹に位置する古刹で山号は峨眉山、寺号は文殊仙寺。峨眉山とは、文殊山の別名。日本三文殊のひとつに数えられ、また、「三人寄れば文殊の知恵」の発祥の地とも・・・。
開山は648年(文化4年)。中国唐時代、仏教の五大霊場の一つである五台山より迎えられるた文殊師利菩薩をご本尊として安置している。

山号の峨眉山について(推測)・・・上記の記載のごとく、本尊の文珠菩薩が五台山より迎えられたと有ることより、山号をその由来とするならば、「五台山」と考えるが、「峨眉山」となっている。峨眉山には、楽山大仏があり、その知名度から山号を「峨眉山」としたのではないだろうか。

国東半島の多くの天台寺院は、仁聞菩薩の開基と伝えられるが、文珠仙寺は役行者開基とされています。
役行者(えんのぎょうじゃ)とは、7世紀(飛鳥時代)に実在し、修験道/山岳信仰の開祖と伝えられている。本名を賀茂役君小角(かものえだちのきみおづぬ)と言い、略して、役小角(えんのおづぬ、あるいは、おづの)と呼ばれている。尊称は役行者、または、役優婆塞(えんのうばそく)といわれ、呪術の達人。
没後約千年経った寬政11年(1799年)、神変大菩薩の諡号が授けられ。

この古刹を守るのは、この峯入り行で大先達を務める秋吉文隆住職、大追家の大役を担う秋吉文暢副住職である。


太宰管内志 豊後之九



文殊山(峨眉山)頂上の風神様

一行は、講堂にあがり、本尊にお参りし、お茶を一服。続いて、堂の左手にそびえる仙の不動岩へのぼって般若心経を唱え法螺貝を吹き鳴らした。(上の写真の左上に少し見える岩山が不動岩)

寺の開基と伝えられる役行者石像と奥の院に参拝し、寺の背後に聳える岩山の上に祀られた風神様を目指して鬱蒼と茂る森の中の急な斜面を木々に掴まりながらよじ登って行く。

一般参加者の多くは、山岳コースとほぼ並行した舗装道路を歩いて成仏寺を目指す。

風神様の小さな祠がある岩の頂上に立つと姫島をはじめ、昨日の通った五辻の岩山他が眺望出来る。360度が見渡せるの絶景ポイントである。ここで唱えた般若心経と法螺の音は国東半島の山々に響き渡った事だろう。
画像は、2010年5月22日

周防灘に姫島が浮かび、左方向には五辻の峰が望める。

峰々の頂上を繋ぐ狭い尾根を辿りながら、僧侶達峯入りの一行は清滝観音堂へ向かう。

途中、尾根が途切れる壁には、僧侶達の手によって事前に梯子が掛けられ、それを足場に急な崖を下り、また上り、鬱蒼と繁る木々の間を進み行く。


紫竹(しちく)観音・・・峯入りコース外

鬱蒼とした森の中に祀られた小さな祠に観音様が納められている。

紫竹観音・・中国は四川省の有名な三十三観音の一つ水月観音(紫竹観音)を真似たのではなかろうか。

清滝観音堂 ←クリックすると太宰管内誌へ

険しい森の道を上り、清滝観音堂へと向かう。清滝観音堂は、成仏寺の奥の院とも伝えられている。

垂直に立つ岩壁に堂宇が建てられ、千手観音像が祀られている。

清滝観音堂は、地元の人々の厚い信仰によってしっかりと守られている。

お堂の一股下の左手には、湧き水があり、乾いた咽を潤すのにありかたい。


観音堂からはコンクリート舗装の急な道を1.5kmほど下る。少々疲労した足にはしっかりした踏ん張り
を強いるきつい下りだったろう。錫杖をしっかりと突き、般若心経を唱え、この坂を下ったのだろう。

15分程で坂を下ると、堂の下地区へ出る。さらに、民家の軒先を通る里道を下ると、両子山と大獄山を背景に京乱の谷がすばらしい景観で迎えてくれる。京乱の中央付近には、朝日観音堂跡と伝えられる場所に大きな宝篋印塔が立っている。

一行は、朝目観音堂へ足を運んで般若心経を唱えたのだろうか。

宝篋印塔の隣には石の道標がある。右たしぶ、左きつきの文字が深く刻まれている。

        画像は、2010年5月22日 →