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2010mineiri-m

峠を越えて夷の谷へ
画像撮影:2010年3月22日

左奥が尻付山。その手前がハジカミ山。山の向こうの應暦寺から峠を越えて峯入りの一行は夷の東谷へと下ってきた。・・・中山仙境からの眺望

應暦寺から峠を越えて夷の谷へと下る。急な坂をくねくねと折れ曲がりながらのぼる。岩山をよじ登る以上の難所を約4kmほどのぼって、峠に至り、今度は約4kmを下る。長く急なのぼりで酷使した足は、再び下りの踏ん張りを強いられて悲鳴を上げる。

一般参加者の面倒を見ながら走り回る大越家の秋吉文暢副住職、越家の寺田豪淳副住職にとっては、難行苦行の場となった様だ。

峠には、小さな石の仏様が祀られている。

峠を下り行くと、右手が尻付山、続いてハジカミ山。その二つの山裾の谷に西狩場集落と横岳集落がある。

下りながらの景色は絶景だが、峯入りの一行にはどう見えただろうか。
中央が尻付山。この道を下って夷の谷へ向かう。


夷の谷 六所権現 奥の院 夷山霊仙寺 夷山実相院
六所権現社や霊仙寺の並ぶ東谷下坊中は、東狩場の谷から流れ下る夷川の北東側に位置する。寺院の正面は夷耶馬(えびすやば)と呼ばれる奇岩峰が聳え、それを見上げるように寺院はたたずんでいる。

夷耶馬の地名は、奇岩・秀峰の連なる姿が耶馬渓に似ている事から言われる。
秀峰の尾根伝いを歩く登山道があり中山仙境と呼ばれている。この登山道の途中には石仏(観音像)が祀られている。石橋の無明橋や鎖場などがある。
中山仙境から東を夷の東谷、西を西谷という。

中山仙境から眺める夷の東谷も絶景である。

画像に見えるは、霊仙寺。

手前(画像左)から、霊仙寺、実相院、六所権現

六所権現 奥の院
段上達雄氏「中世六郷山寺院の法会 2」より

六郷寺院の多くは鎮守社として六所権現を祀っている。中野幡能氏は無動寺(小岩屋山)所蔵の「六郷山鎮守六所権現御本記満山之秘書」に、神功皇后・比咩大神・隼別皇子・大葉枝皇子・小葉枝皇子・雌鳥皇子の二女神(二所権現)と若宮四神(四所若宮)を以て六所の権現とし、その本地は観音であると記されているという。これに八幡大神(仁聞菩薩として応化して六郷山を開いたという)をあわせれば、宇佐神宮の本殿と若宮社の祭神となる。六郷山寺院の鎮守神六所権現は、八幡大神(仁聞菩薩)を除いた宇佐の神々だというのである。ただ、この説は数あわせ的な後世の付会である可能性も高い。「豊後の国の六郷山は、昔八幡薩埵も人聞菩薩として、久修練行の峯なり」といわれたように、八幡信仰との関連性は強い・・・云々・・

仁聞菩薩像とも? 中尊は八幡大菩薩とも?

六所神社 今夷社

夷山霊仙寺

六郷満山末山本寺霊仙寺由来(説明書き転記)

宗派 天台宗

当寺は山号を夷山、寺号を霊仙寺と称す。
国東六郷満山廿八ヶ寺の古刹にして養老二年(718)宇佐八幡神の応現である仁聞菩薩の開創といわれる。
本尊は千手千観世音菩薩を秘仏として安置して居り祈願たえない。
平安後期作の阿弥陀如来(座像)及び不動三尊像を併祀される。
亦、隣接の六所神社は往時当山の奥の院であった。
山門、梵鐘等由緒深きものがある。
石造彫刻としては江戸初期作とみられる山門前の仁王像は国東の佳作であり、更に丸彫りのも二躯が祀られる。
その他石造、二天像、国東塔(桃山期推定)亦大地蔵尊は像高4.87メートル、総高6.50メートルで安政七年の彫作で一石地蔵尊では九州最大である。
他に夷谷には道園線刻磨崖、梅ノ木磨崖(何れも県重文指定)等がある。

夷山實相院
霊仙寺と六所神社に挟まれてたたずむ。
霊仙寺の守護神を祭っていた六所神社の境内にあったが、明治の神仏分離の政策によって切り離された。

霊仙寺の隣にあり、實相院 (じっそういん)は霊仙寺の講堂であったとか坊の一つであったとか言われている。
實相院は九州三十六不動尊巡礼の第 5番札所。
本尊は不動明王を中心とした聖観音像、薬師如来像など。境内には鎌倉時代末期から南北朝時代の作といわれる、4mにも及ぶ国東塔がある。

両善寺では、峯入りの一行が昼食をとった。

さて、午前中の行軍を終えた。午後は、山中の峠越えが待ち受ける。