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2010mineiri-i

最勝山妙覚寺

画像提供 国東市k-plan氏


【最勝山妙覚寺】曹洞宗

 国東六郷満山霊場めぐり第七番札所

生憎の雨となった。総勢200人を超える峯入りの一行は、カラフルな雨具を着て妙覚寺へ続く道を歩く。

山門前には『不許葷酒入山門』とある。生臭いものは門をくぐるべからずらしい。
山門に向かって、右に大きな国東塔があり、左には一枚石に彫られた六地蔵。門柱の吊り板には蓬莱 七福神 福禄寿霊場とある。

■七福神の歴史/寺の講堂にあったものを転記
七福神ができ上がったのは大体室町時代であると言われている。
それは室町時代も終わり頃になれば、庶民が商業の繁盛を念願して信仰の対象を求めていた。この時代、「仁王教」に説かれている「七難即滅、七福即生」の言葉を基にして、それ以前に個別独立して信仰されていた神々が七福にまとめられ、福の神として世間に現れたのである。室町時代からの信仰も江戸時代になると、幅広く庶民に行きわたり、中でも町家の人々は競って七福神を祀り、毎年正月には三三五五、七福神のほこらを巡礼して、七福を祈願する風習があったようである。
また、正月元旦から、福の神の服装をした人が農家や商家の各戸をまわり、七福神の祝い歌を声高らかに唄いながら、福徳の舞を舞って寿ぐ風習もあった。


掘岩屋普賢洞
妙覚寺から300m程の都甲川を渡った直ぐのところにある。
大きくくり抜かれたような岩屋の中に像に跨った普賢菩薩像他二体の菩薩石像が安置されている。

村人の信仰心あつく、いつ来てもきれいに掃除され、花が供えられている。
妙覚寺から堀岩屋へ向かう一行

堀岩屋全景 2010年5月撮影

十王岩屋


都甲川支流の日平川沿いに少し上ると、日平川に架かる十王橋がある。その橋を渡ると、目の前が十王堂。

この十王堂にも岩屋を守る屋根があったと思われるが、今は荒廃著しく見る影もない。

岩屋の中には、沢山の十王石像がひっそりと並んでいる。

岩屋の隅には峰入り札が立てかけられていた。

撮影は、2010年8月



金剛山長安寺
大治5年(西暦1130年)の胎内銘を持つ長安寺(ちょうあんじ:豊後高田市)の太郎天像は、山岳 (とそう)の行者の姿を模したものとも云われ、六郷満山信仰を具現化したひとつとして、今日まで伝えられている。太郎天像は住職にお願いすれば拝観出来ます。


熊野磨崖仏前を出発して、本日のゴールとなる長安寺。秋は見事な黄金色の紅葉で有名である。

初日の到着の様子をこの目で確かめたかったが、叶わなかった。日頃の行いが悪いのか、信心が足りないのか、残念な結果となった。この記録を見て、誰か画像を提供いただければ、誠に有り難いが・・・

■六郷満山中山本寺金剛山長安寺
豊後高田市大字加礼川字屋山
本尊 千手観音菩薩
由緒  
元正天皇御宇養老二年(718) 仁聞菩薩の開基と伝える。
平安末期国東半島の六郷に仏教文化が華咲いた鎌倉時代、この寺が六郷山寺院の惣山として最盛期を迎える。学頭職がおかれ満山百余ヶ寺約一千人の僧侶を統卆事あるに臨み国家の安泰将軍家の隆盛を祈祷す。
南北朝室町時代は武家の勢力に押されながら安土桃山時代屋山城主吉弘鎮信及びその子統幸は長安寺の別当執行権を握り主軸となった。神仏の恵みと武家の力は寺勢を増大庶民信仰の霊場としても繁栄した古刹。
2001年12月24日撮影
大越家の文殊仙寺副住職は、一般参加者の面倒を見るために走り回っていたが、無事に到着しただろうか。

千燈寺の兄弟は、歩き通せただろうか。

皆が、一日を歩き通して、長安寺の長く急なのぼりの参道を無事に上った事を期待した。