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2010mineiri-h

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高山寺
 遙拝
大変残念だが、ここから、長安寺までの当日の画像は全くない。ギブスをして寝ている自分が悔しい。
仕方ないので、以前の画像を使って、要所要所を説明させていただく。

高山寺遙拝・・蕗川沿いにしばらく下ると左手に西叡山が見える。高山寺はこの中腹にある。峯入りに参加している船津住職が以前無住だったこの寺を守っている。

【高山寺】比叡山が全国の寺をおさめていたころ(一二六五年ごろ)豊後の国「西叡山高山寺」の勢力が、全国に及ぶのを恐れた比叡山は高山寺に尼を送り込み、高山寺に火を放った。・・と云われている。この時に焼かれた仏像が焼仏として、田染の里の延暦寺・朝日観音像・夕日観音像や小田原の里は矢原の岩窟・小堂に残っている。
その後近年に高山寺は再建され国東半島を見渡している。


白鳥神社

桂川が大きく蛇行して丸くなった川沿いに白鳥神社がある。
さて、峯入りの参拝所にこの白鳥神社があるのか?一般には日本武尊(やまとたける)を祭神とするとあるが・・

この神社には、比較的新しい仁王像が鳥居のすぐ内にあり、申殿の裏にも古い仁王が腰まで土に埋もれている。

由緒はどこにもない。境内には、大きな楠がご神木のように聳えていた。


塔ノ御堂 遙拝(豊後高田市小田原字立道)


桂川を再び渡って、坂を上る事数百メートルの右側に「塔ノ御堂」の案内板がある。道路から石段を10mほどあがると塔ノ御堂(とうのみどう)の境内。そこには、見事な石像文化財がある。
峯入りの一行は、遙拝としたが?


塔ノ御堂板碑
板碑は、安山岩製。額部(最上部)に月輪を付したバン(金剛界大日如来)、主尊はキリーク(千手観音・阿弥陀如来)、脇侍は右がサ(観世音菩薩)、左がサク(勢至菩薩)の阿弥陀三尊が刻字されている。制作は、鎌倉時代末期と想定される。

塔ノ御堂国東塔
塔身には、四面仏が刻まれている。それぞれ、
正面(南):阿弥陀如来、右側面(東):観音菩薩、背面(北):薬師如来、左側面(西):釈迦如来
現在、90度右に回転している。(左に90度回転した位置が正しいと考えられる。・・説明書き転記


良薬山智恩寺

豊後高田市観光協会設置の説明板書きの転記

■所在地:豊後高田市大字県字堂山
■解説
 智恩寺は、六郷山二十八本寺の一つで、本尊薬師如来養老二年 (七一八)に仁聞菩薩の開基と伝えられ、天台宗である。
 宝亀二年(七七二)八幡宇佐宮から、六郷山別当に神円、惣堂 達に良範が派遣された。
 天正四年(1586)島津軍豊後に進入、兵火の余波で堂宇烏有に帰す、当時本尊仏は、井底に投じられ難をまぬかれた。
 講堂の主柱に、六郷山峯入りの墨書きがあり往時の盛況を物語る。
 旧正三日、修正鬼会を勤修していたが、昭和二十九年を最後に、以降県地区講中で護摩焚にかえた。
 ・講堂 薬師如来 日光 月光菩薩 十二神将
 ・観音堂 観世音菩薩 外
 ・境内 六所権現社 国東塔 石造仏等
■指定年月日
  昭和五十三年三月三十一日県指定有形文化財
  智恩寺跡昭和五十六年四月一日市指定史跡
柱には、安永八(左1779年)と文化十四(右1817年)の墨書きがある。


応利山(大折山)報恩寺 遙拝

峯入り再挑戦、最高齢の応利住職が月に一度守る、旧報恩寺を遙拝する。
(現在の報恩寺は、来縄の夏目におりている。)

旧報恩寺は、応利山の南西中腹にあり、来縄の雲林から参道が整備され、以前に比べれば容易に上る事が出来る。(画像は2002年10月撮影)

参道途中には、愛嬌のある仁王さんを見る事が出来る。

【境内の説明書き転記】
六郷満山本山本寺
大折山(応利山)報恩寺(天台宗)
国東六郷満山霊場めぐり第一番札所
・開基 仁聞菩薩 養老二年(七一八年)
・本尊 千手観世音菩薩(木像二三糎)

寺伝云 「養老二年仁聞菩薩宇佐八幡の神託を蒙り、神効皇后追福の為千手観音を祀り、その後弘仁二年伝教大師最澄宇佐宮参拝の折、当山に詣で広く円頓の妙旨を伝え、宗徒悉く帰依し天台宗となり爾来顕密の教法を兼ね国家安寧、万民快楽の修法を修す。往寺は七堂伽藍を整え末寺三六坊を有す。幾約星霜の後殊に天正年間大友の兵火に焼かれ以降衰微の一途を辿る。寛永寛文年代黄檗宗の禅師により再興され天台を離れていったが昭和二十七年再び復帰して今日に至る。」

 境内主祭神及び文化財
 ・主風大菩薩
 ・神功皇后追福塔
 ・石像仁王尊像
 ・制札掲示跡 等