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2010mineiri-g

岩脇寺


10時40分岩脇寺へ到着。東光寺住職が鐘を打つ。

【岩脇寺:いわきじ】六郷満山本山末寺
 ・開基 仁聞菩薩 養老三年(七一九)
 ・本尊 阿弥陀如来
 寺伝云日野山岩脇寺は仁聞菩薩養老三年(七一九)開基又、延暦寺の直末であったとも、六郷山定額院主目録に岩脇寺正等院徒六房あり天正中兵火に罹り烏有に帰す。
 寛永元年(一六二四)淨眼和尚衆庶の進施に依り再建。天明年中(一七八一〜一七八八)の寺院名簿に岩脇寺は島原領内にあり寛政五年(一七九三)三月寂照和尚の時城主松平公に請うて営繕改修し本堂庫裡を今に残す。

■境内の神仏
 ・・本堂 阿弥陀如来・不動明王
 ・・弁財天及脇侍十体
 ・・三十三観音。帝釈天
■奥院
 ・・六所権現・八十八カ所石仏
 ・・磨崖仏

岩脇寺の裏手には、岩場の道があり、多くの石造文化財を見る事が出来る。岩脇寺の説明書きにもあるよう、六所権現や磨崖仏(現在は風化が著しく、確認できない)、多くの観音様を祀った観音堂が見られる。

一行は、ここに参拝し、散華の儀式を行った。

【散華】仏や菩薩が来迎した際に、讃嘆するために大衆や天部の神により華を降らしたという故事にちなんで行われる。

仏を供養するため、花や葉を撒き散らす。散華を行うのは、華や葉の芳香によって鬼神などを退却させ、道場を清めて仏を迎えるためとされる。
蓮などの生花が使われていたが、現在は蓮の花びらを模った色紙や、キシミの葉が用いられる。


観音堂 六所権現


本宮磨崖仏
・毘沙門天;多聞天とも呼ばれ、北方守護神で福徳、富貴、財福の神。七福神の一神
・矜羯羅童子:不動明王の脇侍。
・不動明王:大日如来の化身と言われ、一切の悪魔を降伏させる。
・持国天;東方守護神で善賞悪を罰する
・声聞形尊像;地蔵菩薩?、地蔵であれば、六道済度の菩薩である。
・制作年代:室町時代と推定/声聞形は追刻と思われる


岩飛び
不覚にも、間戸あたりで捻挫した足が腫れ始めて、歩けなくなった。先回りして、富貴寺前の蕗川南の岩飛び岩に先回りしていたが、ここでやむなくリタイアとなった。以降の画像は、マイルドさんとk-planさんに提供いただき、書き進める事とします。

画像は、マイルドさん(国見町)撮影・提供

峯入りに耐える度胸と体力を試す「岩飛び」を僧侶たちが次々に挑戦していく。岩の高さは、おおよそ1m50cm程だろうか。

それぞれ、思い思いの格好で、目の高さ3m程から下に敷かれた畳を目指してジャンプする。

最高齢の報恩寺住職応利住職(71歳)も尻餅をついたが、無事飛んだ。

右の画像は、大きく手を広げてムササビの様に大きなジャンプを見せた、千燈寺の今熊禅人君(21歳)。


富貴寺


残念ながら画像はない。富貴寺では、昼食をとる。ここが、今日の中間地点となる。

【富貴寺】養老二(718)年に仁聞菩薩の開基、六郷満山山本寺末寺とされる。
また、大堂の形態から、平安末期にはすでに存在したと考えられる。大堂のつくりは、典型的な平安末期の浄土思想の影響が見られる。大堂を中心に、観音堂、講堂、釈迦堂、院主坊、大門坊、妙蔵坊、東坊、中坊、谷坊、南坊、清音寺、権現社等が存在したが、その勢いが衰退し、院主坊(本堂)と大堂のみが残る。
大堂は、養老年中にカヤの木一本で仁聞菩薩が建立したと寺伝されるが、約900年前の平安末期と想定されている。
この地方の豪族であった宇佐氏/宇佐八幡宮司が建立したと伝えられている。

2008年12月撮影 2008年12月撮影大堂

間戸−岩脇寺−本宮磨崖仏−岩飛び-富貴寺までの道程