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2010mineiri-e

熊野磨崖仏大護摩〜金剛山長安寺

3月31日
護摩 熊野磨崖仏(7:00〜)→今熊野山胎蔵寺→真木山傳乗寺→間戸寺跡→穴井戸観音→朝日観音→夕日観音→岩脇寺(散華)→本宮磨崖仏→蕗(岩飛び)→蓮華山富貴寺(昼食)

→高山寺(遙拝)→白鳥神社→塔ノ御堂(遙拝)→良薬山智恩寺→大折山報恩寺(遙拝)→最勝山妙覚寺→掘岩屋→十王岩屋→金剛山長安寺(宿泊)


熊野磨崖仏
10世紀後半ごろの作ともいわれる 熊野磨崖仏 (豊後高田市)の大日如来像上部にある曼荼羅(まんだら)彫刻は、熊野修験と六郷山山岳信仰が習合したものともいわれている。また、仁聞菩薩の作とも伝えられている。

大日如来像の頭部上に彫られた曼荼羅

熊野磨崖仏 大護摩
朝7時に熊野磨崖仏前に到着した。すでに、カメラを担いだ人たちが20人ほど思い思いの場所を陣取っている。私も、なるべく全体を見下ろせて、磨崖仏が画面内に治まる場所を探して腰を下ろした。

7時17分に白装束の僧が上ってきた。僧達は、磨崖仏の上にある熊野神社へと上っていき、熊野神社へ参拝し、今日の大護摩を行う場所へと下ってきた。

今日は、すでに標縄は張られ、その標縄の中央に護摩段が用意されていた。
岩に彫られた不動明王に向かって、護摩段が配置され、その後ろに祭壇が組まれて、峯入り札や願い事を書いた護摩札が並べられる。僧や一般参加者が標縄の結界の中に正面を開けた形で居並んだ。
やがて、大先達の文殊仙寺秋吉住職が祭壇の前に立ち、一同で般若心経を唱える。静まりかえった森の中に般若心経が響き渡る。

続いて、四方固めが行われる。大元神社で行われた様に、四天王の神に祈り、四方に矢を放つ。
この後、採燈師が護摩壇に火をつけて、大護摩が始まった。

僧達は、般若心経をとなえながら、汚れを、安全を、歩き通す願いを煙にのせて天空の神に届けた。



熊野神社 不動明王(左)と大日如来(右)

今から、4日間150kmを歩く峯入り行が始まる。
熊野の、鬼が一夜で積み上げと云われる、急な自然石の石段を下り、胎蔵寺を経由して馬城山伝乗寺へ向かう。

胎蔵寺下から旧道を少し下って、鳥居の手前あたりに「ホラガ石」なる場所がある。この石に足を掛けてホラ貝を吹き鳴らすそうだが、その様子を見る事が出来なかった。(画像は、後日、国見町ウォーキング委員やガイドの会の皆さんと歩いた時のものです。)

今は、ちょうどサクラと菜の花の時期。残念ながら曇り空の今日だが、香しい花の香りの中を一行は元気に歩き始めた。
後日撮影のホラガ石




馬城山伝乗寺
真木の大堂として知られる。

1281年の元寇(げんこう)の時に、六郷満山全寺院六十五ヶ寺、八百坊、約2千人の寺僧が異国降伏、国難打開と祖国繁栄の大祈願を長期にわたって行った。その恩賞として鎌倉朝廷より菊花の紋章が鎌倉幕府豊後守護職を経て六郷満山に下賜(かし)された。

当時六郷満山の長議所(聴講所)であった馬城山伝乗寺(真木大堂)の本堂に高く掲げた。
今日、真木大堂旧本堂正面の扉に大きく掲げられ、当時を物語っている。
『国東半島 六郷満山の伝承 景勝と仏の里』
真木大堂の名で知られる 馬城山伝乗寺(まきさんでんじょうじ) 跡。阿弥陀(あみだ)如来坐像 をはじめ 大威徳明王(だいいとくみょうおう)像 、不動明王像 など計9体の平安仏を伝えている。

伝乗寺までは、舗装の一本道。伝乗寺で一行を待とうとも思ったが、熊野神社のある真木の峰をバックに、白装束の隊列を写し取ろうと、この場所で待つ事にした。これが大失敗の始まりとなった。

実は、伝乗寺から間戸寺跡・穴井戸観音・夕日観音・朝日観音へは、川沿いに上って行く旧道がある。一行は、伝乗寺で御接待を受けた後、その道を通って、間戸寺跡を目指していた。

それを知らず、レンゲ畑に踏み入れた足をぬかるみが捉えて、くねった。これが原因で、富貴寺あたりで歩けなくなる。

異変に気づいて、急いで間戸地区に向かう。
馬城の峰