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2010mineiri-b

修行の道起源(峯入りの道)

以下は、昭和42年発行の「資料拾遺 第二巻 宇佐託宣集 下巻」の写しである。原本は、「宇佐宮八幡御託宣集」。鎌倉時代後期、宇佐宮学頭神吽(じんうん)が正和2年(西暦1313年)に編さんした古記録。

人聞菩薩(仁聞菩薩)の山岳修行の場としていた国東半島を巡る修行の道を、僧能行(俗姓宇佐氏)が津波戸山に三十一年間こもり、至難苦行の結果、津波戸山中の石室で人聞菩薩と思しき老仙人が現れ、二つの修行の道を教えたと書かれている。
一つは、“後山(うしろやま)の石屋より始めて、横城に至るべし” これは、豊後高田市両戒の後山を起点に、杵築市横城の東光寺までのコースであろう。もう一つは、“海路、辺地を経巡すべきなり” とあるが、詳細は記述されていない。

これが、天台宗峯入り修行のルートとなった様だ。
以下に、“峯入りの道”大分県文化財調査報告書第54輯記載内容紹介
  ※同書籍は、大分県立図書館、大分芸術短期大学図書館に所蔵されている。

 『宇佐託宣集』に六郷山内の修験巡路が2通り記されている。ひとつは「後山(うしろやま)の石屋より始めて 横城(よこぎ)に至るべし」というもので、現宇佐市両戒の後山を出発して杵築市横城の東光寺(とうこうじ)に至るコースである。

道筋は不明であるが後山石屋→田染(たしぶ)郷→田原別符(べっぷ)→安岐(あき)郷横城のコースであろう。

いまひとつは「海路、辺地を経巡すべきなり」とある。これがどのコースをさすかも不明であるが、屋山(ややま)長安寺から千燈石屋に至るコースとも考えられている。

これらコースの確定は、半島内各地に分布する窟内仏の大半が12世紀以降のものであることからみて、平安時代末のことと思われる。
近世に入り順慶(両子寺)が六郷満山の復興を行うと、山岳練行としての峯入り行も復活する。

現在のところ最も古い峯入り関係史料は 富貴寺(ふきじ)(豊後高田市)の柱銘で次のような墨書がある。「元禄十四年 六郷山仁聞大菩薩古跡■■■■ 二月十三 」。元禄14年(1701)に峯入り行者の一行が富貴寺に来た時に記したものである。

以後各地の堂、寺院に残る柱銘、修札等から近世の峯入り行の行われた年を拾い出してみると、宝永3年(1706)、寛延3年(1750)、宝暦9年(1759)、安永8年(1779)、寛政11年(1799)、文化14年(1817)、天保8年(1837)、嘉永6年(1853)と約150年の間に9回行われている。
宝暦5年(1755)には「豊前豊後六郷山百八十三ヶ所霊場記」が記されており、宝暦9年以降は約19年に1回の割で行われている。

峯入り行は一生に1度修すればよいとされており、柱銘 修札には「初入」の文字を記す。ただし安永8年の修札(香々地町、大力坊)に「大先達報恩寺豪恵二度」とあるので、2度行った場合もあった。

峯入り行の日時は毎年春2月である。7日あるいは8日に出発し、29日までの間に全行程を踏破している。まず行者は1か所に勢揃いする。このことを「兜巾(ときん)揃え」と称し、トキンゾリの地名を残す所もある。安永8年 寛政11年 文化14年の場合は、来縄(くなわ)郷 田福(たふく)(豊後高田市)の玉井堂に勢揃いしている。

入峯に際しては 宇佐宮に 参詣(さんけい)している。 御許山(おもとさん) に登るが、『 太宰管内志(だざいかんないし)』豊前之十に「豊後国国東郡六郷二十八山の寺院二十一年に一度峯入りの時此山に来り 注縄(しめなわ)を切ておくに入ルと云」とある。
禁足地である石躰権現に、注縄を切って入ることが許されていたのである。

こうして行場を巡拝してまわるのであるが、参加する僧侶たちは精進潔斎し垢離(こり)をとり、極端に穢(けが)れを忌むので、できるだけ在家に近づかないのが原則である。そのため峯入りの道(峯道ともいう)は山道と、垢離をとる関係からか川沿いの道が中心となる。
現在も、行者が水行をとった「みそぎ石」、笈(おい)を下ろして休憩や洗濯をしたという「オイ石」、垢離とり場となった「アカトリ石」などが川辺にみられる。宿泊は寺や 洞窟(どうくつ)であったが、天保8年に記された「水鏡」(「 田染河野庄屋文書 」)には、小屋掛けをして宿舎を供与した記事もみられる。

また現国東町 岩戸寺 の上溝氏宅は行者の休憩所であったため、赤不浄(あかふじょう)を忌んで出産は母屋をさけて別棟で行っていたという。休息地では行者の身につけていた足袋やわらじを取りかえて新しいものを差し上げていた。また行者が通過する村では、村仕事で道や橋の修理を行う(安永8年 安岐町「桂徳寺文書」)。

峯入り行は、六郷満山の僧のみならず国東半島の人々にとって重要な行事であったのである。峯入り行の最終地点は両子寺あるいは 奈多(なだ)宮の2説がある。



津波戸石室
ならば、僧能行が人聞菩薩に逢ったとされる津波戸山の石室をこの目で見たいと思い、津波戸山(つわどさん)へと上った。津波戸山登山ルート絵図にある「水月寺奥の院」であろうと、そこを目指した。

険しいガレ場の沢道をのぼる事1時間程で「水月寺奥の院」へ到着した。津波戸山は、集塊岩が浸食された険しい奇岩絶鋒が連なり、古くから山岳修行の場として、多くの僧が心身を鍛えた行場であった様だ。

修行の足りない私は、やっとの思いでたどり着いた。目を閉じて合掌すれども、私の前には人聞菩薩も能行和尚も現れてはくれなかった。

能行和尚が五躰投地を繰り返したであろう石室にはコンクリートの水月寺奥の院が建てられていた。軒には、天台宗の寺であることを示す菊の紋があった。今は、コンクリートになっているが、正面の空き地には古い奥の院の建物と思しき朽ちかけた木材の残骸が積まれていた。

のぼり始めて程なくのところに海蔵寺(かいぞうじ)境内跡地がある。ここは、養老年間、人聞菩薩が水月寺を開いた場所と伝えられている。


水月寺奥の院(津波戸石室)

【登山口の看板から転記】

津波戸山水月寺跡
 養老年間、仁聞菩薩が国東の六郷満山六五ヶ所寺を開き、寺を本山中山末山とし、それぞれに、本寺末寺を配したが、水月寺は本山本寺であり、この海蔵寺境内跡地に在ったと六郷満山の霊場記にある。

水月寺奥の院
 奥の院の本尊は、十一面千手千眼観世音菩薩で現在海蔵寺の本堂に安置されている。(町指定有形文化財で旧暦正月十日開帳される)

津波戸山海蔵寺跡
 享保二年立石藩木下候の祈祷所として現在地に再興。昭和五七年松尾の小屋敷に転住した。
                              平成七年十一月吉日 山香町向野地区




左の画像は、現在の海蔵寺に祀られている十一面千手観音立像。現在の海蔵寺は、津波戸山登山口にある駐車上のすぐ上にある。

撮影:2011年2月12日旧暦1月10日





後山之石屋
後山(うしろやま)の石屋より始めて、横城に至るべし・・・どちらの峯入りコースも『後山の石屋』とある。やはり、ここも気になる場所という事で、その場所を探してみた。

場所は、豊後高田市立石(たてし)両戒の両戒山(標高349.2m)の中腹にあった。
ススキの生い茂る険しい道を、ひたすらのぼった。時間にして1時間あまりだろうか。距離は、600m程。何度も道を見失いながら、ひたすらその先に後山石屋がある事を信じてのぼる。

のぼりついて、見上げた先に目指す後山の石屋があった。風化激しいが、石屋の上には屋根があった跡がはっきりと分かる。その屋根を支える材木を受け止めたであろう穴も確認できる。境内には、瓦の破片が沢山落ちていた。岩屋の屋根はいつまであったのだろうか?

荘厳な岩屋の前に、白装束に身を固めた天台の僧侶達が、護摩供養し、修行の道へと出立していった事を想像した。国東半島の峯入りの道のスタート地点をこの目で確認出来た満足感に暫し浸った。
津波戸山よりの眺望

津波戸山から両戒山の後山岩屋を眺めると、後山岩屋から津波戸山の山頂経て、水月寺を経由する道順があったとも考えられる。後山金剛山薬師堂登山口に「津波戸山登山口」の標識があった。

石屋には、岩に彫った薬師如来像(画像右)ほか神像と思しき石像が多数安置されていた。石屋右手の奥には板碑も多数置かれていた。

薬師如来の前に並ぶ石像を見ながら想像するに、薬師如来を守る十二神将を思い浮かべる。頭部や腕やその姿から新薬師寺の十二神将を想像したが、どうだろうか?

今日は、国見町の有永さんと山本さんに同行していただいた。


後山金剛寺薬師堂(後山之石屋)

岩屋の岩に立体堀されて薬師如来座像 石造神像(十二神将か?)

宝篋印塔 板碑