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2010mineiri-c

御許山大元神社(宇佐神宮と峰入り)

3月30日(火)

 宇佐神宮の本宮とされる御許山は大元神社で、人聞菩薩(仁聞菩薩)が修行した修行の場を巡る“六号満山峯入り行”実行の報告と、結願(満願)を祈念する開白護摩が焚かれた。この場所での護摩焚きの記録は無く、今回が初めての護摩焚きと聞いた。

この神仏習合の行事をもって、150kmに及ぶ、厳しい修行が始まる。

【御許山について】
 日本書紀(編纂720年)神代記、天安川誓約(ウケヒ)の段に、“日神(アマテラス)が、三柱の女神を葦原中国の宇佐嶋に天降らせた”と書かれている事より、宇佐嶋を宇佐の地の御許山と解釈している。

 御許山(647m)は、宇佐神宮の東南約6kmにあり、馬城嶺(マキミネ)とも廚岑(クリヤミネ)とも呼ばれている。山頂に3個の立石(磐座:イワクラ)があり、三女神は、この立石を依代(ヨリシロ)として降臨したとしている。残念ながら、頂上部は有刺鉄線が張られ、立ち入りの出来ない禁足地となっている。

【開白護摩】峯入り行の安全と、参加者全員の満願達成(結願:けちがん)を祈念しての神事・仏事の神仏習合儀式である。

【開白】
 仏事、神事の初めに、行事の趣旨などを神仏に向かって申し述べること。

【護摩】
 薪木を燃やし、火の中に種々の供物や願い事を書いた護摩木を投げ入れ、火の神が煙とともに供物や願いを天上に運び、天の恩寵(おんちょう)にあずかろうとする素朴な信仰から生まれたものと云われている。また、神仏の智慧の火で、煩悩や業に火をつけ焼き払う意味も持つといわれる。

修験道、天台宗系では、野外において修される伝統的な護摩法要を、採燈(さいとう)護摩という。

おおよその進行は、以下の通りに進められた。
・11時到着。すでに、神前には祭壇が準備され、護摩段が積まれていた。
・11時57分、白装束の僧侶が大元神社の境内へと集まりはじめた。
 白木綿にくるまれた峯入り札や祈願護摩札も僧侶に背負われて運ばれてきた。

・11時59分、僧侶達は、大元神社に手を合わせ、それぞれの準備作業をはじめた。
 標縄を青竹に縛り、四角に張って結界を作り、四隅の竹にカラフルな御幣を四天王に見立てて飾り付けていく。この時点から、一般者が標縄で囲まれて結界内へ立ち入る事が禁じられる。

【四天王】(してんのう)は、欲界の六欲天の中の初天を言い、天に住む4人の守護神の事。四天王が住む天を四王天、または、四大王衆天(しおうてん、しだいおうしゅうてん)と云う。

 四天王は、それぞれ、東西南方の方位を守る神(仏)とされている。
   持国天 - 東勝身洲を守護する。
   増長天 - 南瞻部洲を守護する。
   広目天 - 西牛貨洲を守護する。。
   多聞天 - 北倶廬洲を守護する。

【結界】(けっかい)とは、聖なる領域と俗なる領域を分け、秩序を維持するために区域を限ること。峯入りの安全と目的達成を完全なものとするため、標縄で区切り、四隅に四天王を配した神聖な領域。

・12時18分、標縄による結界が完成し、僧侶達は、簡単な昼食をとった。
・12時40分、総責任者である大聖寺(国東町)住職が到着。早速、高貴な紫の衣に着替える。
・12時58分、宇佐神宮の神官3名が真っ白な斎服姿で登場。


この頃になると、一般参加者約100名ほか、大勢の報道陣や、私の様なアマチュアカメラマンや、見物客等、おおよそ200人を超える人で境内は埋め尽くされていた。

・13時過ぎ、大元神社社殿前の祭壇に向かって、神官、僧侶が並びはじめ、1時18分に、神官、僧侶が祭壇に向かって頭をたれ、神官による祝詞で、荘厳な神仏習合の開白が始まった。

神官の祝詞に続き、神官、僧侶が神殿に玉串を捧げ、僧侶達は柏手を打って神に祈った。今まで、目にした事のない不思議な世界が目の前で繰り広げられる。

弓を手に、矢を結界の4角の天空に向けて放つ四方固めが行われ、続いて、採灯師による護摩壇への点火が行われた。

玉串奉奠 四方固

張り詰める空気を、時折甲高いウグイスの鳴き声が震わす。

神官の穏やかな祝詞に続いて、僧侶達による玉串の奉奠が行われ、それに続いて、僧侶による四方固めの所作が行われた。僧侶は、それぞれの方位を守護する神に祈り、結界の四隅に天空へ向かって矢を放った。

その後、採燈師が2名、祭壇の蝋燭から採燈し、積み上げられた護摩壇へ火を放った。

護摩段の上には、より、煙りと香りを発する様、檜の生枝が重ね積みされている。点火された護摩壇はモウモウたる煙を上げて燃えはじめた。

大先達の文殊仙寺の秋吉住職が、峯入りの声明文を読み上げ、般若心経がとなえられる。
祭壇の蝋燭より採燈


その後、願い事を書いた護摩木が般若心経をとなえながら、僧侶達によって炎に投げ込まれ、護摩壇が燃え尽きるまで祈りが続いた。