遙か昔の大分銀行小川出張所角から安岐川沿いの道へと入り込む。この道は私の初めての道。県の調査資料では、もう少し先から川沿いに出るように線が引かれているが、現在はこの道しか無い。
日頃目にしない住宅と川の間の堤防道を歩く。見下ろす川の州には琵琶などの果樹が植えられている。安岐川もここまで下ると結構な川幅となる。そんな景色を楽しみながら下っていく。
さらに下っていくと、安岐川に新しく架けられた安岐中央大橋からの道を横切って、JA裏の墓地を通り、沈下橋へと進んでいく。
安岐中央大橋を過ぎたあたりで、今日の奈多行幸会ウォークにお誘いしたが、所用で参加出来ないと言っていた小林さんが自転車で現れた。所用前に私たちの激励に来ていただいた様だ。
沈下橋を過ぎて、程なくのところから、小川(こがわ)から港へ通じる旧バス通りに出て、焼ヶ幡八幡社へと向かった。県調査資料では、墓地を過ぎてもしばらくは川沿いを歩き、浄国寺北あたりでバス道路と交差して焼ヶ幡八幡社へと向かう。若干の差が生じる部分となった。 |
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大道橋の袂から川沿いの道へ |
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安岐中央大橋手前の御一行 |
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激励に来ていただいた小林さん。 |
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中園の沈下橋 |
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畑の中の道を通り抜けて、旧バス道路と交差 |
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大神社の鳥居前で立ち止まる御一行
この神社の200mほど先が焼ヶ幡神社 |
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大儀寺へ到着
臨済宗妙心寺派・・安岐城主田原氏の菩提寺 |
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さて、県の調査資料では、焼ヶ幡八幡社境内を通過し、大儀寺の山門前を通過のラインとなっている。このルートも現在の道を歩いた。
焼ヶ幡八幡社は玉垣が倒れ、社殿もかなり傷んでいるが、拝殿は近頃の修復跡が見られる。この神社、額装に善神王と刻まれた鳥居が建っている。
つま先上がりの道をのぼっていくと、大儀寺の境内へ出る。少し高台に位置する大儀寺は臨済宗妙心寺派。
御一行がワイワイと境内を散策いていたら寺の住職らしき人が出てきてくれた。その途端、一行の一人と住職がお互いに気付いて懐かしそうに挨拶を交わす。
なんと高校の教え子と先生だった。偶然の出来事。
御陰で、住職より、この寺が安岐城主の田原氏菩提寺とのお話をお聞きできた。
寺の山門には丸彫りの愛嬌ある仁王さんが立っている。少し長面で、何となく某プロレスラー的な顔立ちに親しみを感じた。
御一行は予想だにしなかった出会いと愛嬌ある仁王に会えて良い気分。さて、奈多行幸会の御一行は大儀寺に立ち寄ったのだろうか? |
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大儀寺の参道を下り、程なく道を左手にとる。旧バス通り手前の道。県調査資料からは少しズレている。
庭先に咲く花を眺めながらのんびりと歩く一行。立ち止まって庭先の花の名前をああだこうだと話していたら、縁側に腰掛けていた主が教えてくれた。
行幸会の一行は11月くらいに歩いたのだから、こんな綺麗な花は眺められなかっただろう。
3軒ほどの民家を過ぎて道は二つに分かれていたが、左手にのぼり、県調査資料のルートを大きく外れて、峠あたりからルートへ戻る。残念ながら、今はこのルートしか歩けない。変電所下で県調査ルートに戻り、最廣寺へ向かう。折角だから、最廣寺へ立ち寄った。境内には人影は無かった。
最廣寺から東へ少し下ると、路肩に小さな石塔が二基草に埋もれている。鉄のプレートになにやら文字が書かれている。「?観音」と辛うじて読める。そう言えば、ここの左手にネギテ穴観音と呼ばれる遺跡があった。ちょっと寄り道してみよう。 |
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町指定有形文化財(昭和五十五年十月三日指定)
ネギテ穴観音
所在地 大分県国東市安岐町馬場 所有者 馬場地区共有 年代 不明
高さ五mほどの東面するもろい砂岩のガケをくり抜いて二室を造り、その内壁に八体の仏像を陽刻している。摩滅がひどく仏の種類は判別しがたい。
ガケの最下部に幅0.8m、高さ0.9m、奥行き0.5mの坑道が東に口を開いており、その上縁に観音像らしいものを刻んでいるが、これは後世の造作と思われる。
ネギテ穴観音がどのような目的でいつ、誰がどんな技術で造ったのかは現在においても解明できていない。
平成五年十二月 |
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国東市教育委員会 |
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