県調査資料によれば・・・城園から両子川を渡り、用水路に沿って下る。
溝口清次氏宅(大字掛樋字春祭1386-3-1番地)裏を通り宇佐田(歳神社の故地)を経て、・・・・
歳神社は昭和十年頃に現在地(溝口清次氏宅前の山際)に遷座したもので、旧社地には自然石が数個散在しており、その一つが溝口氏宅内にあって、拝み石と伝えられている。・・と記されている。
歳之神と書かれた額の鳥居前を過ぎて、その並びに水田があり、民家が二軒並ぶ。この水田が宇佐田だろう。残念ながら人影も見えず、住人の方に尋ねる事も出来なかった。
ここにレスキュー車を1台置いたが、皆さんの足はまだまだ大丈夫のようだ。レスキュー車をここに残したまま、関権現宮への道を歩く。ここから、ちょっとだけ旧道に入る。掛樋簡易郵便局横のもとガソリンスタンド脇から、これももと松原商店の裏道を通り、田んぼの用水路上を歩き、関権現宮の社頭に出る。
関大神社の鎮座地は、六郷満山の末山本寺であった西岸寺の故地であり、その裏山には三所権現の岩屋と称する巨石が鎮まる。
県調査資料では、・・関大神社前に出た旧道は、県道と交叉しながら筧地区の住宅地を通る。・・・とあるが、旧道の姿は今日現在確認できなかった。
旧庄屋渡辺家前の消防格納庫敷地内を経て渡辺次真氏宅(大字掛樋字筧842番地)前を通り、矢野優氏宅より50メートル進み、県道から山路に入る。・・この道は、手前に居を構える清原正美氏によって維持管理されており、今も難なく通行が出来る。今日は、当人の清原正美氏に案内をお願いした。 |
|
掛樋トンネルの上に立地する岩屋堂に出て、堂から30メートルほど崖淵の山路を通り県道に下りる。
この岩屋堂は、観音菩薩を杞る故に観音窟と称する由であるが、明治初期の神仏分離に際し、西岸寺境内(現、関大神社)の板碑(延文三年在銘、総高155センチ)をはじめ、地区内の庚申塔・石祠等の石造物類がこの窟に集められ、現在は堂内に安置されている。
岩屋堂から県道に下りる手前には、長さ三メートルほどの朽ちた木橋があり、すぐ先の藪の中には庚申塔があった(今、岩屋堂内にあり)。・・・と県調査資料に記されている。
岩屋堂から下る道の山側に龕が掘られ、石仏が並んでいたが、気がつけば半分ほどが持ち去られていたそうだ。それから石仏を堂内へ安置したとの話を清原さんよりお聞きした。
また、立派な宝篋印塔があったそうだが、管理する年寄り衆によって売り払われ、酒代と消えたとのこと。その宝篋印塔の所在は分かっているそうだ。
訪れた今日は、冬の降雪で折れた立木が斜面にぶら下がり、少々危険状態も見受けられた。特に足下のトンネル出口辺りは、岩壁から剥がれた立木がぶら下がり、今にも下に落ちそうな状態となっている。
この山路は、両子往還として重要な旧道であったが、掛樋トンネルの開通後、山路は荒れ橋も朽ちるままとなった。県道に合流した旧道は、須藤寺跡の前で水田(字大摩)の畦畔を通り小野地区の谷川橋に出るが、この間の道は寸断されており、明確に把握できない。
清原氏の案内と説明で、板碑や他の石仏の歴史他を知る事が出来た。これからも、このお堂を含めて歴史ある旧道のおもりをお願いします。ありがとうございました。 緑文字は、県調査資料転記。 |