4月14日に二十数人の大人数で挑戦したが、霊験あらたかな金水銀水・戸無し戸の口には辿り着けなかった。どうやら神様の虫の居所が良くなかったのだろうか。
どうしても諦めのつかない私と“じなし”さんの願いを聞き入れていただいた綾部先生のご配慮で、豊後高田市文化財観光ガイドの河野英樹さん、お仲間の河野清一さん、井堀克昭さんの案内で再度の挑戦となった。お供は、“じなしさん”こと山本純夫さん、私が無理矢理お誘いした河野英男さんと私青鬼くん(高橋誠一)の総勢6名である。
8時半に黄金淵の上に集合し、河野清一さんの軽トラで桂川支流の山田川沿いの道を1.5km程のぼり、そこからは左手の山道を徒歩で進む。
前回はこの1.5kmも徒歩で来たが、今日は軽トラに乗せていただいて楽ちんだった。
ここからは、前回歩いた道を竹藪の手前までおおよそ400m緩やかにのぼる。ほとんど水の流れのない沢を越えて、前回難儀した竹藪を沢沿いに迂回しながらのぼる。
前回は竹藪をやや右方向に突切り、右手の尾根にのぼったが、何も発見できなかった。今回は、やや左手の沢沿いをのぼる。
国土地理院の1/25,000の地図で狙いを定めた尾根とその尾根がつくる深く厳しい谷を目指す。
河野清一さんも、空撮写真を手に事前確認をされたようだが、金水銀水にはたどり着いていないようだ。今日こそは是非とも金水銀水・戸無し戸の口を拝みたいと願う。
村落構造と信仰 段上達雄(別府大学)/大分県立宇佐風土記の丘歴史民俗資料館文書に以下の記述を見つけたので紹介する。 |
|
田染三社の特殊な神事に雨乞いがあった。近世村落ごとに、年年恒例の雨乞いの神事が行われていたらしい。
例えば小崎村では愛宕神社での川潮汲みがある。しかし、いざ干魃となると、それではすまなくなる。まず田染三社各自での潮汲みが行われる。
二宮の場合は、三カ村雨乞いといって、小崎村と横嶺村と間戸村の人達が、桂川の鎧淵に行き、川潮を汲んで二宮に戻り、社殿に川潮をかけて雨乞いをする。鎧淵は、蕗村を除く田染地区の中で、最も桂川の下流に位置している。
それでも降雨が無い場合は、田染三社の氏子全域の村人が、揃って大潮汲みに行く。
鬼を従えた行列がつくられ、豊後高田市の磯町までゆき、海潮を汲んで帰り、田染三社各社殿に海潮をかける。
昭和十二.三年頃行われたのが最後だという。これでも雨が降らないとなると、最後の手段として、川勧請が行われる。
明治八年八月と明治十六年七月、それに昭和四年九月に川勧請が行われた。
昭和四年の川勧請の模様は、現在も本宮の拝殿に懸けられた大絵馬に見ることができる。
この川勧請の記念大絵馬は、田染三社それぞれに奉納されたという。(残念ながら、今は所在不明である。)
鎧淵に竹筏を組み、その上に田染三社の神輿を安置する。
雨が降るまで、神輿はその仮宮に留まり、人々は河原で御籠もりをするのである。同時に、西叡山山中にある戸無し戸の口にも参詣して、雨乞いをする。
戸無し戸の口は、岩陰の湧水で、常時水をたたえているという。そこには大蜘蛛がおり、湧水を守護しているので、普断は決して人が近づいてはならないとされている。
以上にように、干魃の程度が進むにつれて、雨乞いの方法もエスカレートするのである。 |