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2010mineiri-v

4月3日

医王山丸小野寺→金剛山報恩寺→椿八幡社→小城観音→小城山寶命寺→杉山瑠璃光寺(昼食)

→足曳山両子寺(宿泊)

椿八幡社

報恩寺から川沿いに下り、武蔵町の椿八幡社へ9時20分に到着した。

【境内の案内板】より
椿八幡神社は、宇佐神宮の分祠で、天平神護元年(765年)十月八日神託によって御在所山に鎮座した。

凡そ二百六十年間に数度の野火に遭い治安三年
(1023年)の火災を機に、現在地に社殿を造営し、御神体を安置した。

爾来宇佐神宮の末社への行幸会が、六年に一度執行されたが、元和二年(1616年)頃途絶えた。


当時の郷社椿八幡の氏子は小原、上小原、黒津、次郎丸、綱井、重藤両子、諸田、新、中村、小俣、富永、恒清、久末、油留木、吉松、七郎、一之瀬、武蔵町分(十五村)は記載省略、の三十三村であったが、江戸前期にには二十五村となり、末期には十八村となって現在に至っている。

鎌倉以降領主は崇敬があつく、特に今市城主の武蔵田原氏は社殿の造営に意をそそいだ。
江戸時代の松平氏は、藩主自ら施主となり、豪商・豪農・庄屋の寄進により造営・修復工事を施工し、庶民は労働奉仕をした。

昭和十三年(1938年)八月二十七日県社に昇格された。御神木樟は、治安三年現在地に遷座の際の記念植樹であると伝えられている。


一之神殿・八幡大神(誉田別命)、二之神殿・比売大神(多岐津姫命、市杵島姫命、多紀理姫命)、三之神殿・神功皇后(息長帯姫命)


椿八幡社に到着した峯入り一行は、境内で地域の人々からのおせったいを受けて、つかの間の休憩をとっていました。ここでは、境内で自由にくつろぐ行者さん達の姿がありました。



そうそう、“からあげ花ちゃん”のご夫婦も“おせったい”で峯入りの一行を労っていました。


ここからは、山越えの道でで寶命寺へ向かいます。
椿八幡脇の未舗装の山道を真南へ1.5km程走ると宝命寺にたどり着きます。
この道は、普通車の走行はかなり危険です(一部未舗装で道幅が狭い)。
軽自動車なら問題ないと思います。私は、軽の四駆で走行しました。


寶命寺

寶寺は長い間無住となり、講堂もかなり朽ちていましたが、国東市の興導寺の副住職が寺を再興し、住職となって守っています。
寺の裏山にはスダ椎の森が広がり、その森の中には石仏が並べられて、八十八箇所めぐりのコースが設けられています。

寶命寺へ到着すると、村人達が、行者一行へのおせったいの準備をしていました。
餅や饅頭など、前日から準備したであろう心づくしの持て成しの品が並べられて、いました。

やがて、法螺貝が聞こえ、寶命寺の上の『法螺が石』に足を立てた行者(東光寺藤園住職)が法螺貝を吹き鳴らし、到着を伝えました。

一行は、奥の院に向かって手を合わせ、般若心経を唱え、本堂のある境内に下りて、迎える人々錫杖で加持し、本堂に上がり、ご本尊にお参りし、続いて、地区の人々の“おせったい”を受けました。

一般参加者の皆さんも“おせったい”を受けていました。


さて、残りの道のりは、瑠璃光寺を経由して、両子寺までとなりました。ここ寶命寺からは、安岐町の美濃部を通り、かつては栄えた西小川の商店街を抜けて、安岐―豊後高田線から両子線へと単調な舗装道路を歩きます。

道筋で行者の通過を待つ人々に加持しながら、行者達は瑠璃光寺へ向けてひたすら歩を進めていきます。

私は、瑠璃光寺で待ち受ける事としました。