吉武東里をご存じだろうか。たぶんほとんどの人が聞いた事の無い名前だろ。
簡単に言えば、国会議事堂を設計し自ら施工した人物である。
なぜ、このことがあまり知られていないのか。
彼の背負った歴史にその理由があると矢野氏からうかがった。また、吉武東里の生家を案内いただいて無性に彼の造った国会議事堂を見たくなった。
画像は、2008年10月18日に撮影した国東町岩戸寺の吉武東里の生家である。 |
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以下は、矢野厚雄氏が調査作成したものです。
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国会議事堂を設計、建設を総指揮・東里
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■吉武東里のルーツ |
肥後の加藤家が幕府(3代目家光・1628)の幕藩体制確立に刃向かったためにお家断絶
→ 家臣の滝□氏が杵築藩預かりとなる。 → 杵築藩主・小笠原忠知は武蔵の麻田に土地を与える。 → 武蔵での初代は滝□忠三郎 → 7代目の忠三郎道利が明治維新(1868年)を迎える。この間、240年 → 維新直前に道利の弟・彦四郎が岩戸寺の吉武家に入る。
→ 彦四郎は郁爾・弘・娘をもうける。
→ 庄屋の家系である吉武家の長子・郁爾に「東里」が誕生(明治19年2月6日生)
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■東里の人となり |
・岩戸寺に郁爾・カタの長子として東里が生まれ、岩戸寺の国東塔、石灯篭、仁王などの石造文化を見て育つ。
・12歳で臼杵に住む母方の叔父の家に下宿して臼杵中学校に入学、卒業後、来浦小学校の臨時訓導を勤める。
・明治40年に京都高等工芸学校図案科を出て、恩師・武田五一教授の推薦を受けて(元田肇にも)宮内庁工匠寮に就職(21才) 宮中の生活用品や家具をデザイン(日本初期のインテリアデザイナー)
・秋吉家の娘と結婚「4男1女」の親となる。素水・泰水・靄子、淑郎、成水のうち男児は帝大を卒業。
・国は明治50年を記念して日本人博覧会を開催することに決め、博覧会設計図案を公募。東里の作品が1等に人選。しかし明治天皇の崩御や第1次世界大戦勃発で中止。人選の祝いと図案作成の慰労を兼ねて1年間欧米各国を回って近代建築を視察するチャンスを与えられ旅に出る。
・大正8年(1919年)、国会議事堂設計図案募集に上司や親友の名で応募(118点の中で予備審査に20点が残り、最終的に1等と3等に入選)
・大正9年東京淀橋区上落合に自宅を造り、従兄弟や親の兄弟等と共に小来浦村を出現させて幕らす。大正12年の大震災では大打撃。
・1等になった設計図で議事堂建築を任され、大蔵省建築局技師として建築主任の重責を担う。竣工までの間、多くの若い技師が仕事で自宅を訪ねて来たことは子育てに好影響があったようである。
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■議事堂の設計、施工 |
・大正8年の帝国議会議事堂の設計図案公募に応ずる。
・東大教授の辰野金石(大分赤レンガ館などを設計)等が118点の応募作品を審査、上司の名で応募した東里の作品が金的を則止める。この設計に、イメージやアイデアを閃かせたものは・・・ |
・故郷の石遺文化
・明治42年伊藤博文の死(議員は死を覚悟して国政に当るべき‥・墓)
・英国の議事堂 階段状のピラミッド(ギリシャのモーソラス王の墓)
・模写を繰り返していた尾形光淋の絵とデザイン(特に内部の装飾は光淋の影響が大きい) |
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・恩師武田教授を大蔵省営繕局嘱託技師に迎えて国会議事堂を完成(ここに人を大事にし、控え目で寡黙がちな東里の奥ゆかしさが偲ばれる)
・国会議事堂設計、施工に主任技師として総まとめ役の重責を大正9年から昭和11年まで17年間はたす。
・苦心したところは(東里談)内部の装飾、机、敷物、壁レリーフ。部屋では天皇の控えの間、五重塔がスッポリ入る広くて高い天井の中央ホール、正面をドーム屋根にせず、ピラミッド型屋根にしたことなど。
・台湾、朝鮮をはじめ国内から御影石、大理石を集めたこと。(山□、徳島、高知、茨城などから良質のものを)
・大蔵省建設局に移り、議事堂の設計・施工の建築主任として総指揮をとりながら大正9年に地鎮祭、昭和2年の上棟式、昭和11年11月7日の竣工式(建設途中で大震災)を恩師武田教授とともにやり遂げる。
・完成とともに東里は役所をやめて(昭和12年9月)来浦に帰る(長男として生まれた故郷のことが常に念頭にあったため・・)
・そして昭和20年4月30日に病気のため忽然と不帰の人となる。この日の二目前に3男が特攻隊員として戦死の訃報がはいった時は悲しみを隠しきれなかった。
・岩戸寺の生誕の地には郁爾の頌徳陣と古村(弘)の筆塚、国会議事堂の主石・徳山御影で造られた東里記念碑(平成13年建立)がある。
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■郁爾と古村 |
・郁爾
・王州の号を持ち、日出藩儒学者・米良石操について漢字を、杵築藩・十市王洋について南画を学ぶ。
・来浦村長を長く務め、地域の発展に貢献
・訓導、農休業奨励、筵業の振興に努力
・古村
・郁爾の弟で吉武 弘、のちに宇佐市の豊後南画家・松本亀山の養子となり、松本古村に。
・旧制中学校の美術教師をつとめる。
・初代の大分県美術協会会長。
・文展審査員の洋画家・片多徳郎(豊後高田)や日本画家・福田平八郎を育てた。
「平成20年10月 矢野」
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