suc2z1h ・・・・          ・ 宇佐市 弥勒寺の仁王像

2006/05/06
OBS/大分放送 HP情報転載

神仏分離 ( しんぶつぶんり)

神々の明治維新

慶応4年(1868)明治維新政府によって
出された一連の指令にもとずき展開された神
仏習合(しゅうごう)禁止の宗教政策。
神道擁護の目的があり、当然仏教勢力には大
きな打撃となった。
3月17日の社僧 別当(べっとう)の還俗(
げんぞく)命令に引き続き、28日には神社
が仏語を神号とすること、仏像を御神体とす
ることを禁じ(神仏判然令)、閏(うるう)
4月19日には神職者およびその家族は神葬
祭を行うよう命じた。
明治5年(1872)2月に出された寺院に
よる宗門改めの特権剥奪(はくだつ)は、そ
の一つの帰結であったといえる。

(宇佐宮での神仏分離)
神仏分離の諸指令は、一般的には諸藩領より
維新政府の直轄地で、しかも神仏習合神社の
多い地域で劇的な展開をみせることとなる。
古くから代表的な神仏習合の神社である宇佐
宮は、明治2年には日田県管轄となっており
大分県下では最も激しい廃仏毀釈(きしゃく
)が行われた。
神職による「破仏乱暴ノ所業」が激しく、弥
勒寺(みろくじ)の本尊弥勒菩薩(ぼさつ)
像は極楽寺(ごくらくじ)へ、薬師如来像 
・・・
日光月光菩薩像 不動明王像 愛染明王像 
仁王像は大善寺(だいぜんじ)へ、また一切
経は西光寺へそれぞれ売り払われたほか、鐘
楼 経蔵 楼門および祇園社の鎮守などが破
壊された。
また、2年3月には、心乗坊 喜多坊 安門
坊永勝院など、宇佐宮と御許山(おもとさん
)正覚寺(しょうかくじ)の社僧21名が還
俗した。




この記述から、宇佐神宮の呉橋の先にある大
善寺を訪ねてみた。

小さな寺の境内には元気な犬が私を迎えて、
仁王以上に威圧した。・・・ははは
犬をなだめながら境内をうろついてみたが、
仁王像は発見できなかった。

気持ちいい初夏の風を受けながら寄藻川の土
手を歩いて宇佐神宮の宝物館へ向かう。
もしかしたら、宝物館に何か情報があるかも
と、覗いて見ることにした。

入館料300円を払って入館。先客は無く、
私一人となった。
入って直ぐの右手の展示室を覗くと見事な木
造の仁王像があった。
説明書きを見ると、弥勒寺の仁王門にあった
仁王さんであることが確認できた。





説明書き転記

木造金剛力士立像      二体
             室町時代

   像高  阿形  226.0cm
       吽形  220.5cm
   素材  檜材  寄木造り

普通は仁王と呼ばれ、開口像を阿形、閉口像
を吽形といい寺門の入口左右に一対像として
立てられている。
この仁王像は、神仏習合の時代には呉橋の東
側、新宮寺である弥勒寺西大門に安置されて
いたもので、両像とも手足に損傷の部分が見
られるが、筋骨隆々、気魄充実し、動勢の表
現力も優れ、室町時代の彫刻様式がしのばれ
る。

此度の修理において、阿形、吽形の両頭部内
側付近より制作年代の墨書銘が発見され、阿
形の首柄接合面に修理年代も記されていた。
●阿形墨書銘
     □ □ □ 祈 □
    □ □ 

  修理墨書銘
   天文廿三年甲亥六月廿八日修復覆畢中
   明院学栄敬白

●吽形墨書銘
  嘉吉元年(1441)
  大内殿 
  同文安五年(1448)十一月一日
  □□□祈祷
  □□□
  □□

●両足柄部台座墨書銘
  元和五年(1619)細川忠興公の祈祷
  により、二月佛師求菩提山僧にて修理さ
  れる