suc2g1q ・・・・・ 豊後高田市松行 金宋院跡仁王石像


20065/03/19

都甲神社下で出会った都甲神社の社総代に
松行の山側に金宋院という寺があって、そ
こにも仁王さんがあることを教わった。

早速歩いて上ることにした。
天気は最高。少し歩くと汗ばむ陽気の中を
梅の花の香りを楽しみながら歩く。
桜の枝も、蕾がだいぶ膨らんで、ピンクの
花びらが今にも開きそうだ。
ウグイスも春の陽気に浮かれて恋の歌を歌
っている。
・・・ ゆっくりと狭い道を歩いて上ると、道の脇に
「吉弘氏菩提寺」の立て札がある。

その道を進むと、寺の石垣があり、その上に
小ぶりの仁王さんが睨みをきかせている。


境内は、建物の痕跡すらなく、多くの石像が
見られる。
仁王さんの脇には羅漢や六地蔵などの立派な
彫りの石像が多数あり、見応えがある。
ここからの眺めもすばらしい。





吉弘氏菩提寺 金宋院跡


金宋院は、禅寺で永享8年(1436年)の
開基と言われ、屋山城主であった、大友氏の
三大老吉弘氏の菩提寺として栄えてきた。

吉弘氏は、大友氏の重臣として、中国地方の
大内氏に対抗するため、屋山城主として当地
を納めた。
吉弘家からは、柳川城主(福岡県)立花宗茂
を輩出し、朝鮮出兵(一五九二年)などで多
くの武功をあげた一族であった。

悲運の武将吉弘統幸(第五代屋山城主)は、
関ヶ原の役(一六〇〇年)で豊臣方に参じ、
黒田軍と石垣原(別府市)で戦い、孤軍奮闘
したが壮絶な討ち死にをした。

当時の金宋院住職は、ひそかに統幸の首級を
持ち帰り、寺内に葬った。
終戦後、寺は無住となり、寺屋は崩壊し、金
・・
宋院の名のみを残してきたが、吉弘氏の子孫
や地区の住民により、供養塔が建てられ、金
宋院跡として遺されている。

境内遺跡
・石造仁王像  1816年製作 
       阿形101cm 吽形106cm
・宝篋印塔  戦後再建  204cm
・国東塔 93cm・126cm
          ・130cm・331cm
・石灯籠 1711年の銘 219cm
・合仏龕  60cm×68cm 
        板石に阿弥陀3尊レリーフ
・六地蔵  61cm×94cm
            板状石面レリーフ
・その他 五輪塔 21基 羅漢像 18体


          豊後高田市教育委員会