吉弘氏菩提寺 金宋院跡
金宋院は、禅寺で永享8年(1436年)の
開基と言われ、屋山城主であった、大友氏の
三大老吉弘氏の菩提寺として栄えてきた。
吉弘氏は、大友氏の重臣として、中国地方の
大内氏に対抗するため、屋山城主として当地
を納めた。
吉弘家からは、柳川城主(福岡県)立花宗茂
を輩出し、朝鮮出兵(一五九二年)などで多
くの武功をあげた一族であった。
悲運の武将吉弘統幸(第五代屋山城主)は、
関ヶ原の役(一六〇〇年)で豊臣方に参じ、
黒田軍と石垣原(別府市)で戦い、孤軍奮闘
したが壮絶な討ち死にをした。
当時の金宋院住職は、ひそかに統幸の首級を
持ち帰り、寺内に葬った。 終戦後、寺は無住となり、寺屋は崩壊し、金 |
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宋院の名のみを残してきたが、吉弘氏の子孫
や地区の住民により、供養塔が建てられ、金
宋院跡として遺されている。
境内遺跡
・石造仁王像 1816年製作
阿形101cm 吽形106cm
・宝篋印塔 戦後再建 204cm
・国東塔 93cm・126cm
・130cm・331cm
・石灯籠 1711年の銘 219cm
・合仏龕 60cm×68cm
板石に阿弥陀3尊レリーフ
・六地蔵 61cm×94cm
板状石面レリーフ
・その他 五輪塔 21基 羅漢像 18体
豊後高田市教育委員会 |