宝陀寺
sub7h02 2002年4月
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■由緒・石板書き転記 恒武天皇延暦二十三年伝教大師唐より帰朝后千手千眼の尊像を刻 み一刀三礼の作豊後国田原別府のこの山に安置す。寺を清水と号 し僧坊六坊を置く、これ宝陀寺の前身である。豊後国主大友氏泰 の時その臣田原左近蔵人直平この地の領主たり。清水寺の住良義 法印ともに一夕観音瑞夢の告あり数日後二人相会し相語りてこれ を奇とす。ついて共に本堂に泊まりしに夜半忽焉として白人の神 人現れ笏を捧げて曰く「この地は三世諸佛説法の霊地なり悟庵善 し師は即ち正法明如来の応化なり汝宜しく寺を建てて迎え寺主た らしむべし、われはこれより護法善神として永く加護せん」と言 い終わりて消ゆ。夢覚めて之を異とし良義法印これを田原直平に 語る。直平歎して曰く「わが夢も亦然り」と遂に地を広めて寺を 建て東福聖一国師法孫悟庵禅師を迎えて開山の祖となす。これ即 ち蟠龍護山宝陀寺なり。時に後醍醐天皇の元應二年三月十日なり。 |
■宝陀寺・千手観音 この像は延暦二十二年(803)、伝教大師入唐の際、海中大風 に逢い、同二十四年帰朝の上、刻みて安置したという。光背の周 囲に千手と千眼があるが、これは千の慈眼、千の慈手をもって衆 生の救済にあたられることを意味している。この像は同寺の秘仏 とされ、三十三年一回の開帖と十七に一回の半開帖により、参拝 できた伝えられ、この地方稀有の大仏像である。 |
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千手観音について・・板書き転記 この菩薩は、千手千眼自在菩薩とい うのであるが、普通千手観音といっ ている。 観音の本願は、慈悲を第一とするが、 なかでも、千手観音は、千の慈眼、 千の慈手を具している。 普通みるところのものは、千手千眼 でなく、中央の二手を除いて左右に 二十手ずつ合わせて四十手像である。 この一手が能く二十五有界の衆生を 救うため、四十手に二十五を乗じて 千手といい、一手ごとに一眼を有し ているので、千眼という。 しかし、わが国でも、この菩薩の造 立の初期では、経意にきわめて忠実 に千手、千眼を持つ像も造られたよ うである。 その後千手千眼が、理念的な省略が おこなわれたのである。 |
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以上のことから、宝陀寺のこの千手観音像は、千の手、千の眼がある ことから、初期のものであることが考察される。 日本でも、数少ない千手千眼観音像である。 1.総高 354cm 像高 252cm 2.光背の周囲に千手と千眼があり、頭に弥陀の立像と11頭の顔像 がある。 3.この仏は、33年に1回の開帖があり、17年に1回の半開帖で 参拝させたという。 |
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