宝陀寺    

sub7h02   2002年4月


大分空港から、県道34号線を走り、約20kmで波多方峠。
ここから、県道31号線を右方向に1.8kmで大田村役場へ
到着する。ここから、県道31号線をそれ、石丸川の右岩を
1.4km走ると再び県道31号線へと合流する。県道31号線
への直前に桂川にかかる朱塗りの橋を渡る。朱塗りの橋にたもと
には仁王石像が一対、厳つい顔で睨みを効かせる。橋を渡り、
県道31号線を右手に500mほどで田原小学校となる。小学校
の手前に宝陀寺と清水寺の案内書きが有り、これに従って山方向
の急な道を上ると、正面に宝陀寺、右手に清水寺が確認できる。
境内の石板に書かれた由緒を読む限りでは、清水寺の僧坊の一つ
が後に宝陀寺となったとも読める。
■宝陀寺山門
寺の本堂を引き立てる山門は寛永五年(1628)江戸時代の作で
あるが、安土桃山時代の建築の遺風が認められる点においては貴重
である。
 
■由緒・石板書き転記
恒武天皇延暦二十三年伝教大師唐より帰朝后千手千眼の尊像を刻
み一刀三礼の作豊後国田原別府のこの山に安置す。寺を清水と号
し僧坊六坊を置く、これ宝陀寺の前身である。豊後国主大友氏泰
の時その臣田原左近蔵人直平この地の領主たり。清水寺の住良義
法印ともに一夕観音瑞夢の告あり数日後二人相会し相語りてこれ
を奇とす。ついて共に本堂に泊まりしに夜半忽焉として白人の神
人現れ笏を捧げて曰く「この地は三世諸佛説法の霊地なり悟庵善
し師は即ち正法明如来の応化なり汝宜しく寺を建てて迎え寺主た
らしむべし、われはこれより護法善神として永く加護せん」と言
い終わりて消ゆ。夢覚めて之を異とし良義法印これを田原直平に
語る。直平歎して曰く「わが夢も亦然り」と遂に地を広めて寺を
建て東福聖一国師法孫悟庵禅師を迎えて開山の祖となす。これ即
ち蟠龍護山宝陀寺なり。時に後醍醐天皇の元應二年三月十日なり。

■宝陀寺・千手観音
この像は延暦二十二年(803)、伝教大師入唐の際、海中大風
に逢い、同二十四年帰朝の上、刻みて安置したという。光背の周
囲に千手と千眼があるが、これは千の慈眼、千の慈手をもって衆
生の救済にあたられることを意味している。この像は同寺の秘仏
とされ、三十三年一回の開帖と十七に一回の半開帖により、参拝
できた伝えられ、この地方稀有の大仏像である。

千手観音について・・板書き転記

この菩薩は、千手千眼自在菩薩とい
うのであるが、普通千手観音といっ
ている。
観音の本願は、慈悲を第一とするが、
なかでも、千手観音は、千の慈眼、
千の慈手を具している。
普通みるところのものは、千手千眼
でなく、中央の二手を除いて左右に
二十手ずつ合わせて四十手像である。
この一手が能く二十五有界の衆生を
救うため、四十手に二十五を乗じて
千手といい、一手ごとに一眼を有し
ているので、千眼という。
しかし、わが国でも、この菩薩の造
立の初期では、経意にきわめて忠実
に千手、千眼を持つ像も造られたよ
うである。
その後千手千眼が、理念的な省略が
おこなわれたのである。
以上のことから、宝陀寺のこの千手観音像は、千の手、千の眼がある
ことから、初期のものであることが考察される。
日本でも、数少ない千手千眼観音像である。

1.総高 354cm  像高 252cm
2.光背の周囲に千手と千眼があり、頭に弥陀の立像と11頭の顔像
  がある。
3.この仏は、33年に1回の開帖があり、17年に1回の半開帖で
  参拝させたという。

■歴史書き/石版書き転記

一.本尊釈迦如来大同三年の創立にて海西の法屈と稱す。
一.悟庵唐にありしとき大徳に謁し本覚禅師の法語句中より蟠龍
  山宝陀寺と号すと伝うる。
一.将軍足利義詮の令により諸山列の品に任し宮寺とし寺量五百
  貫を寄進する。
一.永享二年十二月十一日宝陀寺新命周宗東福寺の推挙により幕
  府の辞令を受く
一.天文四年十月七日夜火災のため殿堂焼失すよって大檀徒豊後
  六守大友義鑑寺官衆僧に命じ寄附を募って復興す
一.寛永五年四月智宝禅師大映和尚山門を建設再興す
一.貞享四年火災のため殿堂焼失す杵築藩主松平英親旨を下し寺
  主天領に命し再興す
一.江戸時代当時住職常住末寺二十三ヶ寺無住寺五十八ヶ寺計八
  十一ヶ寺に及ぶ
一.明治十三年五月七日夜山門以外の諸堂を焼失現存の本堂庫裡
  等は明治十五年に再建す
一.清水寺創建後約千百八十年宝陀寺開山以来約六百四十年住職
  四十三代を数う
一.昭和六十一年三月9日本堂及び庫裡を焼失す
一.昭和六十二年一月本堂再建落慶す
  開山六百六十六年記念 
 
           昭和六十二年初春
           施主 財前金利 大田村 大字波多方