清立山 西生寺    

sub7g13   2002年4月


安岐−高田線の真木大堂への分岐T交差点付近に位置する。
さほど大きな寺ではないが、ここ国東半島の寺の標準的な大きさ
である。境内には、杵築藩の念仏法度による豊後法難の歴史書き
がある。


杵築藩の念仏法度による豊後法難の歴史書き

 金剛信 西本願寺勝如上人御筆

今を去る三百余年の昔 国東半島は
杵築藩松平氏の治下にあった。この
地方も浄土真宗の法流ようやく盛に
なろうとしていた。ところが今在家
村での殺事法門が原因で、きびしい
念仏法度の藩命が出され、法難は各
地にさまざまな事件を引き起こした。
「お殿様は真宗をお嫌い故百姓町民
に至るまで真宗を信仰してはならぬ。
門徒の者は改宗すべし」とお布令が
申し渡されるや、田染の住人陽平の
四郎右衛門、上野の助三郎をはじめ、
横峰の弥市、池部の善兵衛、陽平の
喜助等は、秘事法門は真宗の正統教
義とは全く無関係である事を訴え、
領主の命を断固として反撃、浄土真
宗を一途に信仰していた。この法度
の原因は勿論秘事法門にあるが、藩
主の意図は真宗信仰の否定で、領内
に日毎に信者がふえるのを知って恐
れ嫌ったからであった。
春が去り夏が過ぎても改宗を申し出
る者もなく奉行所の足軽数名は、庄
屋の四郎右衛門と助三郎を捕え、有
無を言はさず中原のお仕置場に拘引、
一言のお取り調べもせず、刑場の露
と消されてしまった。この年の冬に
百姓三人が続いて死罪となった。二
人のお庄屋は土壇に正座させられ、
西方に向かって合掌、聲高らかに稱





名念仏して刃をうけたが、二人の首
から蓮華の花が咲いたという。寛文
四年九月二十七日四郎右衛門二十八
才、助三郎二十六才。このとき中津
明蓮寺竹翁は法難と領主の非道な仕
打ちを嘆き、不退転の決意をもって
法難解決に起ち上った。七年の歳月
を費やし、京都、杵築藩へと東奔西
走、法灯の復活を叫び続けた。

光徳寺雲山は法敵誌に一部始終をく
わしく記録し、郷土の先哲梅園は帰
山録にその意見を述べている。
寛文十年法難は表面上解決したかに
見えたが、復宗問題で争いが起こり、
雲山等の奔走で延宝九年円満解決し
た。実に十七年にわたる豊後法難で
あった。昭和三十八年寂如上人下賜
の殉教墓が発見されたが長い間風雪
にさらされながら殉教の悲劇は聞く
人に涙の物語ととして語りつがれて
きた。
ここに三百回忌を修行するに当たり、
勝如上人御筆になる金剛信を題字に
刻み、殉教者と法難に血涙で泣いた
先祖の門徒、その解決に身をかけて
努力された大先達を追想してこの顕
彰碑を建立した。
     昭和四十八年六月九日
 浄土真宗本願寺 清立山西生寺記

       ・・と書かれている・