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想定/6月29日



今より先(未来)の事は、おおかたの人間には知り得ない。まあ、予言者とか言われる

未来の見えるスーパーマンは別だが。

たとえば、一歩足を踏み出すにも、これから足が着地する地点の状況を“想定”しなが

らとなる。着地点の地面が濡れていれば、滑るかも?、ぬかるむかも?。草むらなら、

蛇が居るかも?、何かあるかも?といった、起こるであろう事象を“想定”して行動を

構える。されど、その“想定”が必ず当たるとは限らない。濡れた着地地点にウナギが

いて、それを踏んで転んだ。・・なんて事も起り得る。これが「想定外」となる。

所詮、想定とは予測であって、当たるも八卦、当たらずもハ卦の世界でしかない。

その想定精度・確率を上げるには、過去の経験や情報や科学的根拠に頼る事である。

科学的根拠も自然界の原理原則であり、過去に確認された事実である。
                        
要するに、過去の事実を十分に研究し、まだ見ぬ状況にあてはめる事で想定精度や確率

を高める事ができる。・・だろう。


大きな地震が発生し、その揺れによって大きな津波が押し寄せ、大きな被害となった。

大きな地震も大きな津波も、大きな被害も、みな「想定外」たった。

そう言い切ると、『想定が甘い!』『何を根拠に想定したのか?』と非難轟々となる。

“想定”は、そうなるであろう“予測”であって、その対策・対応は、“想定”によっ

て大きく左右される。過大に“想定”すれば、“想定”を超える被害を受ける確率は低

くなるが、大きな経済負担を強いられる。

さて、“想定”の段階で、この大きな負担を受け入れる事が出来るのか?これはこれで

問題とされるだろう。(増税や単価のアップ等)

こう考えると、落としどころは、『ちょうどいい想定』である。『ちょうどいい』はあ

るのか?


批判は、結果に対する攻撃であって、これから先の対策にはならない。“想定”した人

間を責める事で、ストレスを緩和する事は出来ても、これから先の安全や安心には結び

つかない。それより、過去の事実(今回の結果を含めて)を十分に研究し、可能な限り

の『ちょうどいい想定』をする事では無かろうか。

限りなく『ちょうどいい想定』を基に適切と思える対策を進めて欲しい。


政治家も国民も、過去を研究する(過去の事実に学ぶ)事を放り出して、責任のみを熱

心につつき合う。これでは、未来の対策には向かって行かない。


何が言いたいのか?・・あちこちから聞こえてくる“想定”がちょっと気になっただけ

です。