musashi-f 第9回 み仏の里くにさきウオーキング 
「戦国武将吉弘氏を訪ねて」~武蔵町周回コース
202年5月13日

楽庭社・・吉弘楽

吉弘楽庭社と吉弘楽の話をする室利則氏

吉弘楽画像(商工観光課パンフより)

吉弘楽の歴史

南北朝時代に、大友氏から分かれた田原氏庶流の吉弘正堅が吉広に入封した際に、柞原八幡宮の分霊を祀って創始されたと伝えられる。

その後、大友氏の滅亡によりいったんは衰退するが、元禄10年(1697年)に杵築藩二代藩主松平重栄が、吉広から伝わり都甲松行に残っていた吉弘楽をこの地に復活させ、以来、伝統として今に受け継がれている。

吉弘楽のツグリが天台宗の七仏薬師法とよく似ているとして、この行事と密教の修法との関連を指摘する説もある。

武蔵町史にその詳細が記されている。 → 町史
広い境内は、綺麗に掃除され、気持ちいい空間である。社殿前には、金剛力士が灯籠を肩に乗せた珍しい石灯籠が一対ある。豊後高田市の応暦寺や真玉黒土の迫お堂に同じ金剛力の担ぐ石灯籠が見られる。

社殿右手には志和利川の清流が流れ、クレソンがしげり、清流にはハヤの泳ぐ姿が見受けられる。護岸のブロックには、吉弘楽の様子が描かれている。

私自身、吉弘楽を見るチャンスに恵まれていない。今年こそはと思うが・・・

 室利則氏宅

吉弘氏の末裔 室利則氏による家宝の紹介

当時の槍を持つ三河外記の子孫三河国東市長

菅原道真公像 庄屋 富原一柳翁刻

石塔の写し牌


東ヶ迫六面地蔵塔(国東塔)

江戸時代の六地蔵信仰で製作されたものと推測する。
塔は国東半島で石塔に多く用いられている角閃安山岩。

塔の基本形は、国東塔。基礎は4段積まれているが、格狭間等の細工彫りは見あたらない。塔高228cm。
基礎4段の上には高さ5cm程の複弁の反花が施され、その上に6面の塔身がのっている。各面には、地蔵菩薩立像が彫られている。その上の笠は照屋根、相輪、、請花、九輪、火焔宝珠と続く。相輪は高さ69cm。



祇園社 滝口武士の歌碑

 筆者が滝口さんに会ったのは1949(昭和24)年初夏の頃で、以後、30余年、身近にあって強く感じたのは、まず、その人間性、パーソナルに得難いほどの好印象を抱いたことであった。そしてまた、外、寡黙、温和ではあるが、内、かなり激越なる思念と、行動の所有主であることをうかがい知ることができたのであった。「酒を好まず、酒の上の喧騒を嫌い」「服装も、極めて尋常なる風俗を好み、芸術家気取り、風変わりなのを毛嫌いし」「常に清潔を尚び、稚拙、単純を愛し、たとえ複雑な過程を経るとしても、やがて復元、単純に還るべき」が、滝口の挙措、処世のモットーであり、それはまた、安西冬衛のそれと全く合一するところのものであった。

 滝口武士は、安西とともに『亞』に拠って日本の伝統的な文学領域へ挑戦し、その果実が現代詩たる「昭和詩」の創出に大きく貢献していくこととなるのであるが、その滝口詩に対して、高村光太郎(1885~1956)は「『亞』の気魄は、詩精神の烈しさを私に示した。私は震度の極めて強い音響をいつも思った。『亞』は、日本の詩に密度を与えてくれた」(1939)と激賞している。
 私はそうした滝口詩の、時代の現実を見つめた代表的作品として、次の二編を挙げたいと思う。

  揚子江(長江)を題材として、大正末から昭和初期にかけての中国の現実と、その未来とを、これほど透徹した視座、視点から確かめ表現し得た文学者が、幾人存在し得たであろうか。

 滝口にはまた、自らが生をうけた郷土国東の、さらには零細規模に喘ぎ、深刻な矛盾を内包する日本の農業、農民の生活と生産を主題とした多くの作品があるが、伊藤信吉は、この「蠶」を滝口の代表作の一編だとして高く評価している。

 かく、詩とともに、「大連~『亞』」と、そして「国東~武蔵」の地に生きた滝口武士を、筆者たちはもちろん、生地の人々が追慕、敬仰してやまないのはなぜであろうか。それは、両親の死によって帰郷、以後、東京へも行かず、長く県内にあって教職に専念、『詩と詩論』に参加、個人誌『蝸牛』『鵲』を発刊し、戦後は『九州文学』『心象』『門』同人として、さらには県詩人協会長として、地域の文学、文化活動のため、渾身の努力を傾注し続けたからに他ならないのである。
詩人・滝口武士は、1982(昭和57)年5月15日、別府国立病院において死去。今、最愛の地に眠る。昨2004(平成16)年5月15日が生誕100年であった。
     



      大分県庁HPより転記



 大分県が生んだ昭和詩を代表する詩人・滝口武士は、1904(明治37)年5月23日、東国東郡中武蔵村(現武蔵町)大字手野1081番地に、父近雄、母ミユキの長男(弟妹8人)として出生。1924(大正13)年3月、大分県師範学校を優秀な成績で卒業、4月、旅順(旧満州)師範学堂研究科へ進み、同年9月、大連市朝日小学校に訓導として赴任する。以後、家庭の事情で帰国(1939・6)するまでの15年間、中国・大連にあって初等教育に専念しつつ、詩人・安西冬衛(1898~1965)らと交流、詩誌『亞』(1924~1928)の編集同人として活躍する。

 滝口武士と、安西冬衛。この二人の出会いが、昭和詩、日本の文学史の中で重要な位置と役割を果たすこととなるのだが、滝口は、その安西について「自分にとっては稀有、懸け替えなき存在であった。僕が安西に惹かれたのは、(彼が)それ程の金もなく、また東京にも行かず、しかも現代詩の最先端を歩き続け、一脚を失って詩を書き始め、職らしい職に就かず、詩一本で激しく、厳しく生き抜いたことだ。安西を思うと勇気は百倍する」と、言っている。一方の安西は、彼自身の長い詩歴の中にあって、いつも滝口との『亞』の時代を思い起し、著書、著述を大切にし、滝口からの書簡、はがきの類まで、番号を付して保存していた(小野十三郎談)という。こうした熱誠溢れる、高雅清澄の交友は、二人の生涯を通じて不易、不変であった。

祇園社へ到着

歌碑を前に滝口武士の話を聞く

武蔵町の史跡と歴史を学ぶ、楽しいウォーキングでした。

9時に武蔵西小学校を出発し、15時27分に再び武蔵西小学校に戻りました。6時間半程で15.3kmのウオーキングを楽しみました。私は、昨日も歩いたので少々筋肉の疲労を感じていますが、皆さん顔色一つ変わってないですね。

完歩証明書をいただきました。・・・

堀田さん(画像の左端に写っている)、元気ですね。また、歩きましょう。