musashi-d 第9回 み仏の里くにさきウオーキング 
「戦国武将吉弘氏を訪ねて」~武蔵町周回コース
202年5月13日

西光寺


武蔵町史より転載・・



山号:蓮臺山 寺号:西光寺 所在地:大字古広

宗派:禅臨済宗妙心寺派

本尊:木造阿弥陀如未坐像 丈一五〇糎

脇侍:木造観世音菩薩立像 丈五○糎
   木造勢至菩薩立像 丈五〇糎

由緒:かっては恐らく天台宗の寺であったと思われるが、元和の頃、臼杵稲葉侯の菩提寺月桂寺大安和尚の弟子で後に万寿寺乾叟和尚の法嗣古渓和尚が、当地に来て改宗禅師として、自らぱ第二世となり、開山始祖に万寿寺丹山和尚を拝請した。
丹山和尚は前述大安和尚の肉兄であり、天正年間島津軍の来襲にあって焼失した万寿寺を復興整備した万寿寺中興の名僧である。
寛永十六年己卯(一六三九)五月十一日五十才をもって円寂、遺言により火葬に附して骨灰を大河急流に流させたが、ときの天子明正天皇は師の徳を讃えて徳興真聖禅師と勅謚された方である。
開基ぱ高原道運である。

 本尊阿弥陀如来は、伝説によれば、岡の巴田氏の祖が信州善光寺より奉戴してこの地に来り、現巴田定氏裏の大石上に安置信奉していたものを、古渓和尚が西光寺再興の際に本尊仏としたといわれている。
寛文九年(一六六九)再荘厳を施したときの記録が、胎内銘として残っている。すなわち、中尊阿弥陀佛者聖徳太子之御作也

惟時寛文九己酉年住侶比丘者有志願依衆檀之助縁古佛尊像仝荘巌者也併二脇之菩薩令創造者也伏希者道體堅固億福安寧矣。

         七月良辰  住侶古荊栄謹誌之

           京都寺町下御霊太仏師左京

とある。
爾来現在に至るまで巴田一統は正月八日、この本尊の祭祀をするを例としている。
なお当寺歴代住職は古渓、絶文、栴芳、白堂、洞雲、別山、延山、完圭、蓉洲、断崖、瑞雲、威山を経て現住台隆道に至っている。

薬師堂
弘法大師・清正公を併せまってある。この堂宇は高原一櫛翁の建築になるもので、合天井、須弥壇の獅子・雲龍等の彫刻は、翁の特に丹精を込めたものといわれている。

鎮守天満宮 七世延山和尚が太宰府天満宮より勧請して現地に奉祠した。

境内
国東塔 山門を入り左手の一段高い所に三界万霊塔とともに、国東塔一基がある。昭和三十二年三月二十六日付で大分県の有形文化財に指定されたものである。至徳四年(一三八七)の創建であり、総高二五八糎、構造様式上よりいえば、角閃安山岩よりなり、基礎第二重の四面に各二つの格狭間がある。台座ぱ極めて縮少されて、反花だけで高さ九一糎余りである。塔身には四面に伏勝地蔵・無二地蔵・諸龍地蔵・禅材地蔵の四体が浮彫してある。これは多くの国東塔が塔身に銘または梵字を彫ってあるのに対して変った形式をもつものである。

奉造立多宝塔右願者為現世安穏後世善所頓証菩提乃至法界衆生平等利益也
        至徳二二年丁卯九月二十四日
        開山  ■ ■
        講衆  十七人

板碑 二基
  釈迦三尊の種子板碑高さ七五糎、巾三五糎
  弥陀三尊の種子板碑高さ七五糎、巾三五糎

石殿二基、地蔵塔々身一基がある。
 当寺には当村出身の画家高原一柳翁の誕生仏の画像を始め仏画、またその子竹窓翁作の仏画・肖像画等が蔵されている。

 境内に楓樹多く、古来より花紅葉の称で呼ばれておる。


すえつな  じょいち
末 綱 恕 一

 情報が少ない。あちこち探したら、田深谷にお住まいの「源空翁のホームページ」に「末綱恕一」の情報を見つけた。・・・勝手に使わせていただきました。お許しください。

 三平方の定理を名付けた東大の数学者としても知られて「ピタゴラスの定理」にかわる何かいい名前はないかと聞かれ、『三平方の定理』が内容をよく表していて、近代的な感じではないかと提案し、採用になりました。
 数学者にしてはめずらしい科学技術と宗教の融合を研究して、発言しているのは特筆にあたいする。

神仏習合の地に生を得て、数理の根底に仏教の原点を見つけたのであろうか。ご本人が生きていたら聞きたいところだ。ここにも国東の偉人がいる。

武蔵町に残る末綱恕一 生家の塀

綺麗に管理されている屋敷跡

末綱恕一  武蔵町史より

 わが郷土の生んだ天才的な数学者。元東京大学教授。元日本学士院会員。

 氏は、父琢磨、母キサの三男三女の末子として、明治三十一年十一月二十八日に生まれた。生家は、武蔵町大字吉広一、一〇六番地。

 家は代々医者で、儒学者、甲原玄寿(森尾鴎外「井沢蘭軒」より・・玄寿、名は義、漁荘と号した。杵築吉広村の医玄易の子である。・・と記載されている。)の血を引く家系である。出生時は母乳を吸う力もないほどに未熟児であったが、五歳頃には、すでに近所の者が舌を巻くほどの神童ぶりを発揮していたという。

 杵築中学校に進学と同時に寄宿舎に入った。当時の寮では、真冬でも冷水摩擦をする慣行があったが、冬が近づくとだんだん脱落者が増え、最後には末綱少年一人だけになったというエピソードもある。小学校時代にも足袋をぱかずに通したといわれており、こうした意志の強さ・実行力は、その後の人生に一貫して見受けられる。

 杵築中学での数学の担当は真鍋仙一教諭であった。教諭は、高木貞治教授の下で教科書作成の仕事に携わったことのある人物であった。したがって末綱少年は、将来最も深い関係を持つことになる高木教授の弟子によって数学を学ぶ幸運に恵まれたのである。また、当時の校長は、三浦梅園の研究家でもある藤井専随であり、毎週一時間の修身の時間に、末綱少年らを前にして梅園の学問や哲学の講話をしていた。
こうした出会いが末綱少年の進路を決定づけたといえるかもしれない。

 末綱少年は、数学のみならず他の教科においても抜群の能力を発揮し、杵築中学校開設以来の秀才といわれた。これを伝え聞いた当時の県知事千葉貞幹は、彼の卒業式に特に臨席し、校長室に彼を招き、今後も精進するようにと激励したという。
こうした周囲の大きな期待に違うことなく、一高、東大理学部数学科へと進んだ。東大では、先の高木教授に師事し、研究を積んだ。大正十一年三月の卒業の際には、恩賜の銀時計を拝受した。

 卒業と同時に、九州大学工学部講師として赴任。当時九大では、氏の招聘を文部省に強く働きかけていたそうである。そこで文部省は、短期間でも九大に赴任するように説得するため、将来のドイツ留学の費用を一切国費で賄うという条件まで出した。ドイツ留学にっしては、これに先立って、当時の財閥大倉喜八郎が、氏を日本の国運に欠くべからざる存在であると高く評価し、その費用の援助を申し入れたという。

 大正十三年五月には、母校東大の理学部助教授として戻った。同年十二月、桑木端雄理学博士の長女歌子と結婚。

 氏はこの時期までに数編の論文を発表しており、『解析的整数論』の分野では、すでに第一人者としての名声を得ていた。

 昭和二年に理学博士の学位を取得し、同年ドイツのゲ。チソゲソ大学に単身で留学。その間、特に約数関数の問題を研究し、多くの成果をあげている。また、ドイツの研究者との共同研究も行い、その成果は、帰国直後の「理学部紀要」に発表されている。
 三年十ヶ月の留学を終え、昭和六年三月に帰国。その後ぱ、研究だけでなく、整数諭、代数論、確率論などの講義を担当し、学生の教育にも力を注いだ。

 昭和十年四月に教授に昇進。その頃から、氏の関心は『数学基礎論』の研究に向げられ、以前から造詣の深かった仏教や西田哲学の思想を取り入れて、独自の基礎論を展開した。こうした取り組みは、後進の数学者に強い刺激を与えただけでなく、哲学者の側からも畏敬の念をもって評された。その端的な例として、以前から篤い親交のあった西田幾太郎博士の死後の追悼集に、『末綱さんの哲学に対する並々ならぬ洞察力はもとよりながら、最も敬服に堪えぬのは、末綱さんの関心が単に西田哲学の理解にとどまらず、これを主体化して特に数学者として、自己の学問的攻究の理念にまで深化した自由さである。』という哲学者による記述がある。

 一般的には、数学と哲学や仏教は、互しに相容れない異質なもののように思われるが、氏は、それらを体型的に統合していたので、単なる数学者ではなく、哲学的数学者であったといえよう。

 昭和十八年には学術研究会議会員となり、さらに、二十二年には、日本学士院会員に選ばれた。また、日本数学会においても、重鎮として活躍し、学会発行の研究雑誌の編集やシソポジュームの開催などに尽力した。三十四年に定年退官し、その際、東京大学名誉教授の称号を受けている。

 このように氏は、中央の学界において常に重き位置にあり、多忙な毎日であったが、郷里の老母への孝養も決して忘れなかった。終戦後の交通事情の悪いときでも、汽車を乗り継ぎ、長い道のりを歩いて郷里に帰った。また、こうした帰郷の折り、郷里の教育関係者の要請を受けて、中武蔵小学校の児童達に「O」について講話をしたこともあった。

 氏は、東大退官後、ただちに統計数理研究所の所長に迎えられ、亡くなるまでその要職を務めたし同研究所の設立にも関与したであるが、同研究所が飛躍的に発展したのは、氏が所長になってからであり、その指導力によるところ大であるといわれている。また、昭和三十七年からは科学基礎論学会の理事長も努めた。

 昭和四十五年八月六日七十一歳の生涯を閉じた。生前の多大な功績により、正三位勲二等旭日重光章を授けられた。


「整数論及び代数学」  昭和一〇年共立社
「確率論」       昭和一六年岩波書店 
「数学と数学史」    昭和一九年弘文堂
「数理と論理」     昭和二二年弘文堂
「宗教改革と近世科学」 昭和二四年法蔵館
「解析的整数諭」    昭和二五年岩波書店
「数学の基礎」     昭和二七年岩波書店
「華厳宗の世界」    昭和三二年春秋社
「太絹恕一著作集」   平成元年 南窓社


等の著書がある。