2009年5月17日 ・・ 国見町 千灯寺 sendou-ji2
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旧千灯寺下払坊跡

千灯寺手前(国見から赤根に向かって)の旧道と新道が交わって直ぐを左に折れ、伊美川を渡る。目の前に砂防ダムが見える。砂防ダムへ上る道の左手が旧千灯寺下払坊跡である。

苔生した石段をゆっくりと境内へと上って行くと一番上の段に竹の箒がある。そう言えば、苔生した石段は綺麗に掃かれたように落ち葉が無い。今もこの僧坊跡を村人が守っているのだろう。

境内にあがると鬱蒼と茂った巨木が僧坊跡を大事に守っているように感じた。もちろん、境内も巨木が落とす落ち葉は綺麗に掃かれていた。

鬱蒼とした巨樹の下の空間はひんやりとした静けさだった。

境内には沢山の石像が置かれている。左の画像は『千灯寺下払坊国東塔』と称されている国東塔である。
格狭間(こうざま:壇の羽目や台・露盤などの側面に彫り込んだ刳形の装飾)がはっきりとしている。反花(かえりばな:石燈籠の基礎の周囲に刻まれた蓮弁で、下向きになっているものの事)は盛り上がった複弁になっている。
塔身は太鼓のような丸みを帯びて美しい。さて、この塔が何の目的で何時造られたのだろうか。

国東半島のあちこちで見られる国東塔に共通する造形美である。

国東塔の横には神を祀る石の祠が並べて置かれている。祠には小一郎宮と刻まれている。

国東塔(くにさきとう)とは、大分県国東半島を中心に分布する宝塔の一種。
一般の宝塔が台座を有さないのに対して、国東塔は基礎と塔身の間に反花または蓮華座、ものによっては双方からなる台座を有するのが外観上の最大の特徴である。

鎌倉時代後期の弘安6年(1283年)の銘がある岩戸寺の国東塔が在銘最古のものであり、以降南北朝時代、室町時代を経て、江戸時代に至るまでの様々な時代の国東塔が確認されている。

国東塔が造られた目的は、納経、家門の繁栄祈願
や墓標、逆修(死後の冥福を祈って仏事を行う事)などのためとされる。

国東塔の総数は約500基といわれ、その分布は大分県内北部から西部にも及ぶが、約9割が国東半島に集中している。

国東塔という名称は、京都帝国大学の天沼俊一氏が1912年(明治45年)に富貴寺大堂の修理に国東半島を訪れた際に、一帯に特異な形式の宝塔が分布していることを知り、地名に因んで名づけたものである。
             ・・・Wikipedia

小一郎神(こいちろう神)
何を起源とするかは定かで無い。天台の盲僧や修験者がこの祭りに関与した例がみられる事から、彼らが創作したとも考えられるが、決定できる記録が無い。・・和歌森太郎著『くにさき』より

国東半島他に小一郎様という特異な民俗信仰が存在する。屋敷の中や集落に『小一郎様』と呼ばれる石の祠があった。この神は、よく祟る神で、信仰奉仕を怠ったり、その場所を荒らしたりすると家運を傾けたり、家族に祟ったり病気を起こした
りと、恐ろしい神様と言われている。・・らしい

そんな事から、この神の祠に近づくことをせず、子供達さえこの近くで遊ばせることをしない。この様な事から、祠の周りは草木の茂るに任せるままとなり、凄絶感を増し、多々奇怪な話が生まれる事となった様だ。


また、デジタル日出藩図跡考講座 二宮兼善著を参考にすれば、・・・
家内安全、災難防止、子孫繁栄、商売繁盛などを司る屋敷神と伝えられる。

屋敷神として知られている神は、八幡様・熊野権現・稲荷大明神がある。九州の北部一帯では(豊後、豊前、肥後)では屋敷神として小一郎神がお祭されているところがある様だ。

小一郎神は混一霊・今日霊・先祖霊・荒神様などと称されている。気性の荒い神・祟る神・移動さ
れる事を嫌う神などと云われるきわめて厄介な神様である。

人の霊は50年経つと祖霊=小一郎神になり、屋敷林の枯葉の上に座っていると云われる。人が死ぬと霊は50年を経て「先祖神・氏神」になるとしたものである。
この様な言い伝えから屋敷林の枯葉のできる大きな木の下に祠を造る事が多いと云う。仏教の50回忌法要と一致する事からこう云う推測となったか?。

「屋敷祭り」、「先祖祭」を年に一度行なう家がある。これも何らかの形で小一郎神に繋がりがあるのだろう。

屋敷神と云われるには、屋敷やその家に住む人達を守ってくれる神であろうが、小一郎の名からして悪戯っぽい「男神」と想像する。

小一郎神の発祥については地域によってそれぞれ異なる言い伝えがある。城主であった小一郎の霊を祀るもの、あるいは、祖先である小一郎を祀る等、地域によって異なる説がある。

信仰されている地域は限られている。歴史研究家の説によれば、英彦山の修験者の行動範囲との関係をあげている。

小一郎神は、甘酒を好むとされ、甘酒をつくって供える地域もある。ここ、国東の、それも修験者の行場近くの僧坊跡にこの神が置かれていることも、天台修験者との関わりを否定できない事実かも知れない。

境内の建物をのぞくと不動明王が鋭い眼光を光らせて私の方を睨んでいた。足下には矜羯羅童子、制吐迦童子の二童子が不動明王に仕えている。
像は木像で痛みが激しい。 背中の炎、迦楼羅焔(カルラえん)の彫りは緻密で躍動感あふれる。

カルラは毒をもつ動物を食べるという伝説上の火の鳥の名前。この鳥の姿をした炎は、毒になるものを焼きつくすことを現す。この鳥7羽が炎の形をつくっている。

不動明王の後ろには34体の観音石像が並んでいる。
堂内は綺麗に掃除され、美しい季節の花が供えられている。今も下払坊跡に残された仏は村人の強い信仰に守られている。